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新聞館

2014 年 11 月 20 日

まわしよみ新聞と新聞縦覧所の関係は面白い。まわしよみ新聞は21世紀バージョンの新聞縦覧所といえる。

当たり前の話で新聞になんぼ「新聞はええで!」と力説しようとも、新聞を読んでない人にはその声は届かない。新聞では新聞のよさは伝わらない。新聞を読んでない人(とくに若者)に、いかに新聞の良さをアプローチするか?が求められる。結果、新聞は「場」を持つことが求められる。

ぼくは観光家で、まちづくりとか場づくりとかひとづくりだとかをやってきた。「おもろい場」(コモンズ)を作りたいと思って、それは「遊びの場」がええやろうと。「では、なんで遊ぶか?」で、なんとなく新聞をもってきた。正直な話、新聞の購読を増やしたいとか新聞離れ現象なんて気にもしたこともなかったw

メディアはカタチがないが、あえていうと場こそがメディアを規定する。宗教はメディアだが、仏教もキリスト教もイスラム教も寺院や教会、モスクという場を持つことで、その力を最大限に発揮して世界宗教化たりえた。メディアの力を引き出そうと思うなら、その装置として場づくりというのは欠かせない。

例えば、映画というメディアを楽しむ装置として映画館はよくできている。テレビやネットがあるのに、まだ映画がしぶとく生き残っているのは場があるから。新聞には「新聞館」なんてのはないが新聞は持ち運びができるから仕組みでいい。カフェでまわしよみ新聞をやれば、そこが新聞館的なものになる。

「新聞館」的なものは、かつて日本にあって、それがミルクホール。牛乳を飲みながら新聞を縦覧して語り合うという大人の社交場だった。しかしやがて新聞も牛乳も宅配制度を導入した。家庭を新聞縦覧所化したといえるし、この経営戦略は当たったが宅配制度の結果、新聞の社交性や遊戯性が損なわれた。

ミルクホールはほぼなくなったが、近年、登場してきたニュースカフェの試みは面白い。まちなかのカフェと契約して、新聞を提供して、まわしよみ新聞のような遊びをしかけていく。新聞に活路があるとしたら、これではないか?という気がしている。



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