ホーム > 雑感 > 谷町にある誓願寺の西鶴墓は、西鶴亡き後(元禄6年・1693)、「長らく行方不明であった」(大阪市サイトより)というのが通説ではあるが、滝沢馬琴の『羇旅漫禄』(享和3年・1803)には、ちゃんと墓石が記録されている。

谷町にある誓願寺の西鶴墓は、西鶴亡き後(元禄6年・1693)、「長らく行方不明であった」(大阪市サイトより)というのが通説ではあるが、滝沢馬琴の『羇旅漫禄』(享和3年・1803)には、ちゃんと墓石が記録されている。

2021 年 4 月 18 日

谷町にある誓願寺の西鶴墓は、西鶴亡き後(元禄6年・1693)、「長らく行方不明であった」(大阪市サイトより)というのが通説ではあるが、滝沢馬琴の『羇旅漫禄』(享和3年・1803)には、ちゃんと墓石が記録されている。

その後に行方不明になったのか?幕末の動乱期か、廃仏毀釈の影響か?

また誰も行方がわからなくなっていたのを明治20年頃(1888?)に幸田露伴が発見したとも、朝日新聞記者の木崎好尚が発見した…ともいうが、なぜ発見者が定まっていないのか?諸説あるのか?事の経緯がよくわからない。謎。

ちなみに『羇旅漫禄』は明治18年(1885)に東京の出版人・須原畏三の畏三堂が再出版している。まだ西鶴墓が発見される前(1888?)の出版だが、むしろこの本の再出版を露伴あたりが読んで、西鶴墓に注目したのではないか?それで誓願寺にいったらアッサリ発見された。

要するに西鶴墓は常に行方不明にもならずに誓願寺にあったが、大阪人は西鶴に無意識というか、興味関心がなく、逆に江戸人(馬琴)、東京人(須原畏三、露伴)が西鶴に憧れが強く、その都度、記録を伝えた…というのが西鶴墓の行方不明&再発見説の真相ちゃうやろか?

そもそも大阪人は谷町の近松墓もあんな状況やしな…。


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