金夜オンライントーク全八夜。死生観光トランプも取り上げます。参加者募集中!浄土真宗若手僧侶グループワカゾーさんからのご依頼で産まれたのが死生観光トランプ。そもそも「死生観光」というのは僕の造語で、これには大阪七墓巡り復活プロジェクトが関係してます。僕の経験上、プロジェクトが次のプロジェクトに繋がる…というパターンは、良い流れです。「問い」が更新されることで、そういう流れになる。
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■金夜オンライントーク(全8回)陸奥賢さんの活動を聞いてみよう!⑥8/6(金)22時より「死生観光トランプとは?」
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大阪まち歩き大学。大阪城公園は、戦前は第四司令本部や砲兵工廠などがあり、西日本最大の陸軍基地であった。
かつては戦争の記憶が生々しくあり、「大阪城には行きたくない」という人が大勢いたとか。それが「太閤秀吉の大阪城イメージ」に塗り替えられるのは1983年の「大阪城築城400年祭」辺りから。大阪ビジネスパークの開発などもそれを後押しした。
「天下人」といった秀吉の「美名」で、戦争記憶を無くそうとしたというのが戦後大阪城のイメージ戦略。そのイメージ戦略は成功し、最近は「城テラス」「ミライザ」「御座船」なんていって海外の観光客も多かった(コロナでいない。だから過去形)。
本当に伝えるべき歴史は「帝國陸軍時代の大阪城」やと思いますな。画像は「大阪国防館跡」。隣に「真心碑」があり、これは女子防空通信隊のみなさんが建立した。
戦争末期は男性が少なく、10代後半〜20代前後の女性が通信隊として活動した。西日本各地からB29来襲の第一報が入ると大阪市内には僅か9分で到達した。この9分以内に敵機の種類、方角、数などの情報を整理して陸軍司令本部に送る。空襲警報の発令もここから。タイムラグもあるので、防空通信隊は5分以内にそれらの仕事をこなす必要があった。
大阪国防館は、こうした女子防空通信隊の宿舎だったが、大阪空襲により壊滅。いまは碑だけが残る。