三宮から春日野道へ。西国街道を歩く。ええ天気。
【東京都】地域活性化センターさんでまわしよみ新聞が実施されました!ありがとうございますー!( ´ ▽ ` )
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【前神Pゼミナールが開催されました!】
前神Pゼミナールとは、参加者が関心のあること、気になっていること、知りたいことをフラットに話し合い、対話により思考の幅を広げながら学び理解を深める場です。
人材育成プロデューサーの前神さんによって開催されており、区の職員やゲストをお呼びするなど、センター職員の知見とつながりを広げる場になっています。
今年度第1回目は、新メンバーが入ったセンター職員の関係性づくりのために、コモンズ・デザイナーのむつさとしさんが考案した大阪発信のメディア遊び「まわしよみ新聞」のワークショップを実施しました。
ワークショップでは、様々な種類の新聞から自分の気になる記事を切り抜き、グループに分かれて記事を選んだ理由をプレゼンし合った後、記事を1枚の紙にまとめて「まわしよみ新聞」を作成しました。
参加者からは、「共同作業が楽しかった」「会話の中でメンバーの人柄が見え、関係性づくりのきっかけとなった」など、メンバーとの作業や対話を楽しむ声が多く上がり、お互いのことを楽しく知りあう大変有意義な時間となりました。
地域力創造大学校としてセンター職員の人材育成を目的に、今後も前神Pゼミナールは年間を通じて開催される予定です。
※集合写真撮影時のみマスクを外しております。
谷町にある誓願寺の西鶴墓は、西鶴亡き後(元禄6年・1693)、「長らく行方不明であった」(大阪市サイトより)というのが通説ではあるが、滝沢馬琴の『羇旅漫禄』(享和3年・1803)には、ちゃんと墓石が記録されている。
その後に行方不明になったのか?幕末の動乱期か、廃仏毀釈の影響か?
また誰も行方がわからなくなっていたのを明治20年頃(1888?)に幸田露伴が発見したとも、朝日新聞記者の木崎好尚が発見した…ともいうが、なぜ発見者が定まっていないのか?諸説あるのか?事の経緯がよくわからない。謎。
ちなみに『羇旅漫禄』は明治18年(1885)に東京の出版人・須原畏三の畏三堂が再出版している。まだ西鶴墓が発見される前(1888?)の出版だが、むしろこの本の再出版を露伴あたりが読んで、西鶴墓に注目したのではないか?それで誓願寺にいったらアッサリ発見された。
要するに西鶴墓は常に行方不明にもならずに誓願寺にあったが、大阪人は西鶴に無意識というか、興味関心がなく、逆に江戸人(馬琴)、東京人(須原畏三、露伴)が西鶴に憧れが強く、その都度、記録を伝えた…というのが西鶴墓の行方不明&再発見説の真相ちゃうやろか?
そもそも大阪人は谷町の近松墓もあんな状況やしな…。
【愛媛県】「えひめジョブチャレンジU-15事業」でまわしよみ新聞が実施され、その報告書がでました。
https://ehime-jcu15.com/wp-content/themes/jobchallenge_ver2/common/pdf/schoolefforts/reiwa2/055%E4%B8%89%E6%B4%A5%E6%B5%9C%E4%B8%AD.pdf
三津浜中学校2年生163人が「新聞活用講座」を通したキャリア学習として実施したそうです。ありがとうございます~!^^