紀元2700年大祭
大阪万博2025年よりも紀元2700年大祭の2040年の方がいろいろとアレな気がしている。18年後。狂うやろうなあ。日本。
大阪万博2025年よりも紀元2700年大祭の2040年の方がいろいろとアレな気がしている。18年後。狂うやろうなあ。日本。
大阪まち歩き大学。東成区。さつき児童公園。
この公園には清水太一郎顕彰碑の隣に「母子ほけん地蔵尊」というなかなか聞きなれないお地蔵さんがいる。石板を読むと以下のような文章が書かれている。
「人間が地球に誕生して以来幾多の試練を繰り返し、やっと人間の尊厳生命の尊重を知ったのは、ごく最近の事でありましょう。平和で民主的な人間性の豊かさを国是として制定されました新憲法がなによりもこの事を物語っております。わたし共東成母子会はかねてから母子保健、児童福祉法の精神にもとづきその実現に微力を捧げて社会の態勢と風潮は必ずしも満足した方向に進んではおらず誠に残念と言わねばなりません…」
これまたなかなかエモーショナルな文章であるが、要するに母子保健法の制定を記念して東成母子会が作ったお地蔵さんらしい。
ここはいついっても花が綺麗で普段から誰かお世話する方がいるのだろうと思われる。僕がまち歩きで訪れた時も高齢女性がお参りしていった(隣の清水太一郎の顕彰碑は完全無視で、それもなかなか興味深い)。
このお地蔵さんで、ちと気になるのが玉垣に「中華民国台北市助産士公会」なるものがあること。東成母子会と台北市の助産士がどういう経緯で繋がるのか?謎やなあ。
地蔵さんは説明によると昭和46年(1971)建立で、この頃はまだ日本と台湾は日華平和条約で友好国であった。しかし翌年、ニクソン大統領が中国を訪問すると田中角栄政権は中国こそが「中国唯一の合法政府」と言い出して日中国交を開始。もちろん激怒したのは台湾で日本政府を強く非難して即日、対日断交声明を発表した。「日台断交」というやつで、いまだに日本は台湾との国交はない。
母子会のネットワークにも何らかの影響があったかも知れませんなあ。
大阪まち歩き大学。東成区玉津。松下幸之助起業の地碑。
この石碑は「此付近 松下幸之助起業の地」とあり、じつは「此付近」というのが画期的なことらしいw
行政が史跡銘板、石碑などを建立しようとすると、正確にその場所でないと石碑を建てない…というようなルール、決まり、こだわり(?)があるらしいが、民間はあまりそういうことに頓着しない。「此付近」で済ましてしまったのがこの石碑で、別に「此付近」でいいのではないかと思うw
大阪は日本でも有数の歴史都市であるが何度も何度も火災にあり、戦災にあい、大空襲にあい、なによりも戦後の都市開発がこれまた凄まじい。京都や奈良のように歴史的なモニュメントが残らない。残そうとしない。気がついたら破壊しとる。
「無くしたものが多すぎる」のが大阪で、だから史跡銘板とか石碑みたいなものをひとつでも残してくれないと、まちの記憶、歴史、文化、物語が継承できない。逆にいえば石碑ひとつあれば結構、いろんなものが伝えられる。僕のようなまち歩きの仕事には大いに助かるw 「此付近」でもいいからバンバン石碑を建ててほしいものです。
松下幸之助は「起業の地」以外にも「創業の地」が福島区大開にある。話としては、まずこちらの猪飼野で大正6年(1917)に起業して、翌年の大正7年(1918)に福島区大開に移り、そこで松下電気器具製作所を創業し、それが現在のパナソニックにつながるとか。
猪飼野時代の松下幸之助は本当に大変だったようで二股ソケットを作ったが全く売れない。貯金を使い果たし、妻むめのさんに「もうあかん。心中しよう」と持ちかけたが「うちは心中するために嫁にきたんやない!」と怒られるほどだったという。
しかし起死回生となったのは東京の扇風機メーカーの川北電気(大阪市瀬戸物町に事務所があった)から碍盤(絶縁体の器具)の発注を受けたこと。それが評判がよくて業績を上げ、なんとか持ち直して大開に移っていった。
なので大阪には松下幸之助の「起業の地」(東成区玉津)と「創業の地」(福島区大開)と2ヶ所、石碑があるわけです。なんか和菓子屋とかでよくある「本家」と「元祖」みたいな話ですなw まあ、両方とも正解ということです。
大阪まち歩き大学。上本町。六万体地蔵。
大阪にはいくつか六万体地蔵がある。有名なのは天王寺区夕陽丘町にある四天王寺支院の光徳山真光院の六万体地蔵。推古天皇2年(594)に聖徳太子が父の用明天皇の追善供養のために六万体の地蔵尊を刻んで納めた…という伝承がある。いまも真光院の東には「六万体町」という町名があり、工事などをして周囲の地面を掘り返すと、よくゴロゴロと地蔵がでてくるという。
六万体の地蔵とは凄い。父・用明天皇が亡くなったのは594年。聖徳太子がなくなったのが622年。計算すると28年×365日で10220日だから、平均すると1日に6体以上のお地蔵さんを掘らないと六万体にはならない。太子は父が亡くなったあと、毎日毎日、六地蔵を掘り続けたということになる。もはや巨匠である。
ただ、この「六万体」は「聖徳太子が彫った地蔵の数」という説もあるが、「蘇我物部戦争の戦死者の数が六万人」で、それでそのような地名がついた…という伝承なんかもある。実際に蘇我物部戦争で6万人もの人が戦死はしていないだろうが…。ちょっと怖い話や。
上本町の六万体地蔵は、またいろいろと伝承が違って四天王寺参道の庚申街道にあった道祖神という。『摂津名所図会』には六万体地蔵の説明があり、それによると江戸時代には六万体地蔵の前で毎年12月16日に「泥くじり祭」というのがあったという。
六万体地蔵に鰯を供えて顔に米粉を塗り、笹にみかんやせんべいをつけて供養し、夕刻になると藁を焚いて地蔵さんの顔を泥のように真っ黒にして、その前で「明年の、明年の」と囃しながら踊ったという。
「今年も無事に年が明けるぞ」と地蔵さんに感謝するということだろう。この「泥くじり」は、おそらくは「道祖神」と同義語の「道禄神」(どうろくじん)が訛った言葉だろうと思われる。
面白いのが、この祭礼の三日前から庚申街道では子供たちが集まってきて道のど真ん中に綱を張って通行人を通せんぼして「これが天王寺の作法じゃ、太子さまの仰せじゃ」と通行料をせびり、お金や菓子などの供物をもらったとか。
これらの供物は地蔵にお供えしたというが、おそらくはそのあと子供たちに分け与えられたと思われる。「おいココ誰のショバやおもっとんねんワレええ度胸しとるやないか」いうやつで、もはや完全にヤカラである。四天王寺のルール、聖徳太子が決めたルールというが、ほんまかいなw
今年は聖徳太子1400年御遠忌であるから、いろんな寺社、地域でイベントが目白押しであるが「泥くじり祭」の復活などはない。残念やなぁ。面白い風習やし、聖徳太子信仰のひとつとして地域でやってもよかろう。こどもたちは楽しいに違いない。大人は腹立つがw
ハロウィンの「トリック・オア・トリート」の日本版のようなものかも知れない。
おおさかコモンズ?
まちを歩いてると、いろいろと新しいもん、不思議なもんが目に入ってきますな。
気になったのがポスターをよく読むと「come on,common!」とあって「commons」(コモンズ)ではなくて「common」(コモン)となっている。これでは「おおさかコモンズ」ではなくて「おおさかコモン」ではないか?
commonは「一般」とか「常識」とか「共通」とか「普通」とか「当然」といったような意味に訳されることが多い。僕は「世界観」と訳す。
これが「単数形」か「複数形」かで、だいぶ意味合いは変わってくる。つまりcommonは「単数(ひとつ)の世界観」しかない状態であるが、commonsとなると「複数の世界観」が交錯している状態を表す言葉になるから。
自分とは違う常識、自分とは異なる普通、自分とは相容れない一般、自分には理解できない世界観…そういう「他者」と共にあるのがcommons(複数形)であろう。
僕はcommons(他者と出逢う、出逢ってしまう、多様な世界観)が入り乱れて混淆する、カオスモスな時間や空間や場所を作りたいと活動している。common(ひとつの世界観)を作ろうとは思っていない。「ワンワールド」みたいな時間や空間や場所は、個人的には、あんま好っきゃないw
「大阪はひとつ」ちゃう。「大阪はひとつひとつ」や。要するにバラバラです。この都市は纏まらん。みんなやりたい放題やりおる。それでええ。commonsであること。大阪の可能性は、たぶん、そこや。限界もそこやったりしますがw
んで結局、おおさかコモンズとは何なのか?このポスターでは、いまいち、よくわからない。うーむ。他者やなあw
大阪まち歩き大学。上本町まち歩き。再会の碑。
謎のモニュメント(まちなかアート的なアレ)の真ん中に路上喫煙アカン!マナー守りなはれ!という啓発のチラシが埋め込まれている。これ、こういう使い方するんでしたっけ…?
このチラシがマナーを守ってない気がする…。
大阪まち歩き大学。上本町まち歩き。ハイハイタウン。中田明正像。
上本町界隈は戦後は闇市ができて、いろいろと権利関係がややこしかったとか。それらの店や関係者を一つ一つ巡って説得してハンコをつかせて出来上がったのがハイハイタウン。非合法的な闇市ではなくて再開発した複合商業ビルに合法的に安く入居できるようにするから協力してほしい…ということですな。そのために尽力したのが中田明正氏だったとか。
いまもハイハイタウンには「中国料理 杯杯天山閣」があるが中田明正氏はそこの社長さんで、天山閣グループは南紀白浜でもホテル経営など多角的にやっていると聞く。杯杯天山閣はよくお世話になっております。ええ店でっせw
同じような闇市の問題に取り組んだのが梅田にある複合商業ビルの大阪駅前第1〜第4ビル。あちらは「大日本ドケチ教教祖」で有名になる吉本晴彦氏が再開発に尽力したという。
大阪駅前ビル界隈は江戸時代から吉本氏(あと渡辺氏の土地も多かった)の先祖伝来の土地で「ここは元々、吉本家のものだ!」と吉本晴彦氏は闇市に対して好戦的(?)で、いきなりブルドーザーでバラックに突っ込んで警察沙汰になった(もちろん逮捕されるが裁判で逆転勝訴。いうても先祖伝来の土地ですからな)というような伝説を持っている。しかし、その後、このような力任せのやり方ではうまいこといかないと方針転換して闇市を一軒一軒、説得していったという。
駅前ビルとハイハイタウンと、ちょっと似たような雰囲気、匂い、色があるんですな。闇市の人たちとまちの人たちが粘り強く交渉して作り上げていった複合商業ビル。排除ではなくて、なるべく共存を測ろうと悪戦苦闘した。
敵味方やのうて、黒白やのうて、中をとって、ええ塩梅にもっていこうとする。ハイハイタウンも駅前ビルも、じつに大阪的なビルで、ワイは好っきゃなあ。安うて美味い店が多いのが何よりよろしいw
大阪まち歩き大学。コープこうべさんからのご依頼で「むつさとしと歩く大庄まち歩き」。
去年、大庄エリアの西側、西新田村界隈を歩いたら評判がよく今回は大庄の東側、道意新田から東新田界隈を歩く。
具体的には大庄元気むら→日本油脂明倫寮→尼崎産業博覧会跡地→道意神社→阪神野菜栽培所→尼崎競艇場→琴浦神社→子安地蔵→弓場の先公園→中国街道→大庄小学校→大庄公民館→大庄元気むら…という実にマニアックで渋めなルートw
いや、しかし大庄は深い。なんせ戦前は日本一の大村。日本の近代化のプロセスが如実に反映されている。大庄を歩けば、日本の近代史がわかる。問題点もわかる。深すぎます…。
大阪まち歩き大学。上本町まち歩き。ハイハイタウン。真田幸村緒戦勝利之碑。
NHK大河ドラマの『真田丸』をやった頃(2016年)に天王寺区が「真田幸村博」をやって、その際に建立された。大坂の陣(1614、1615)から400年というタイミングでもあった。
「緒戦勝利」というのは当然、冬の陣の勝利のことで(夏の陣は真田幸村は敗北しておりますから)、それは場所でいえば真田丸であるから現在地でいえば天王寺区餌差町辺りになる。心眼寺や興福寺さん、明星学園がある辺りで上本町ハイハイタウンからは1キロほど北西。要するに石碑のある辺りは真田丸ではない。
冬の陣の配置図などを見てみると、上本町ハイハイタウンはどちらかというと徳川軍の前線であり、前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が布陣していた場所となる。建てるなら「徳川方緒戦敗北之地」が正しいw
正直、真田勝利!の石碑を建てる場所として、ここはちょっとどうかな?と思うが、これが許されるなら真田丸の半径1キロはどこでも石碑があってよろしいから、いっそのこと、あちらこちらに建てたらよろしい。七箇所ぐらい石碑を建ててくれたら「七真田丸巡り」とかできて中には七真田丸を巡る粋狂な奴も出てくるかも知れない。つーかワイがやりまっせw
大阪は蘇我物部戦争の昔から壬申の乱、源平合戦、南北朝と何度も何度もいろんな戦争の舞台となっているが戦国時代の終焉となった大坂の陣は日本の歴史に与えたインパクトは大きい。もっともっと語られるべきだし、大事にしたほうがいい。
家康(茶臼山)、秀忠(御勝山)辺りは有名な史跡としてあるが、前田、上杉、佐竹、伊達、毛利、長宗我部、細川、松平、井伊、榊原、酒井、水野、浅野、藤堂などがどこに配置されていたか?といった石碑はあまり大阪のまちなかでは見受けられない。※細かく見ていけば佐竹の本陣跡(蒲生・若宮八幡宮)などあったりするが、まだまだ少ない。
大坂の陣は日本全国各地の大名、藩主が勢揃いしている。勝った方も負けた方も関係なく「みなさんのご先祖さまが活躍した本陣跡はココです!」という石碑を建てたらいい。たぶん県人会あたりが動いてゾロゾロと歴史マニアなシニアを連れて大坂の陣ツアーに来てくれる。元は取れるんやないやろか?w