PARAの講義で、ただただ神保町、神田を逍遥してリサーチするという5日間。
江戸(東京)の都市構造は江戸城(皇居)を中心として渦巻き状に町割が展開していく。上から見ると「の」とか「@」みたいな都市が江戸。
江戸城の周りは武家屋敷で、大手門(東)からスタートするとまず親藩、譜代、外様といった大名屋敷がぐるっと江戸城の周り(東→南→西)に配置され、江戸城北側の田安門(九段下)を超えた神田エリアから旗本、下級武士のエリアとなる。この辺は幕末の古地図などをみても小さい武家屋敷が所狭しと密集している。
神田が面白いのはこの土地柄で。ここは武家屋敷であったが、最も禄は少ない。だから江戸幕府が倒れたら、最も生活に困り、ダメージが多かったエリアだろうと思われる。武家屋敷から泣く泣く零細の武士は去り、土地利用がしやすくなった。
そこで、その空いた武家屋敷跡に明治新政府の主導で、いろんな新しい学校、大学が置かれていく。そして近代教育の先駆、パイオニアの地となった。
親藩、譜代、外様と違って旗本はまた将軍直参のプライドがあったから、彼らは生活苦で貧しいとはいえ、封建社会を支えた元エリートとして近代教育にかける熱意と努力もあったろう。いち早く近代文明を身につけ、近代のエリートにならないと生きていけない。
彼らは大名家、藩主がそのままスライドして華族となったような、そんなエスタブリッシュな特権階級ではないので、ひたすら実力主義でのし上がるしかなかった。※明治維新が近代革命でもなんでもなく単なる薩長藩閥の徳川憎しの遺恨に過ぎないのがこの事実だけでもわかる。特権階級はそのまま温存されたままだった。そこに近代の意志、理想などない。
神田、神保町の古書店街は大学の教科書の再利用から始まったという。新しい教科書なんて贅沢で買えない。古い教科書を再利用して学ぶ。質屋なんかも多い。若者たちの苦学を支え、近代を支えたのが神田、神保町といえる。
まだ歩いて3日目だが、神田、神保町の特殊性はよくわかった。近代日本を揺籃した文教の都市がココ。PARA、ほんま、すごいとこにあるなあ…。
護持院跡地、護持院ヶ原跡地をさらに北上すると瀟洒な洋館が見えた。覗いてみたら博報堂であった。旧本館を復元したものらしい。どうりで建物の部分、部分が妙に新しい。
この博報堂は幕末には安中藩板倉家の江戸藩邸屋敷があったとか。面白いのが、ここの藩邸で生まれたのがなんと新島譲。安中藩の下級藩士の子だった。新島譲はこの安中藩の江戸藩邸でアメリカの地図や洋書を読んだという。そして海外渡航、アメリカに大いなる憧れを抱いた。
その後、1864年に新島譲は国禁を犯して密航でアメリカに渡り、現地でキリスト教の教えに感動して洗礼を受けた。帰国後、同志社大学を作ろうと奔走し、その実現の最中に47歳の若さで病没した。
面白いのが新島譲が江戸藩邸で読んでいたのがロビンソン・クルーソーの漂流記らしい。漂流記を読んで、ほんまに密航しようと企むのは正気の沙汰ではないが、無責任に想像を逞しくすれば、このロビンソン・クルーソーの漂流記は、洋書調所からの流出ではないか?という気がする。
1862年に護持院ヶ原に洋書調所ができて、まさにその頃に新島譲は安中藩邸にいた。洋書調所と安中藩邸は目と鼻の先です。
洋書調書から流出した一冊の本が、一人の若者の人生を狂わし、それが同志社大学となり、日本の近代教育の萌芽に繋がったのだとしたら実に愉快な話ではあるw
大手町から北上して江戸城を左横目に見ながら日本橋川、神田橋を渡ると神田エリアに至る。江戸時代はじめには、かつてはこの辺りに護持院という真言宗寺院があったとか。ところがこれが18世紀初頭に大火事で焼失する。
なんせ江戸城の真北、すぐそばの大火災であったので江戸幕府は恐れ慄いた。もし江戸城に引火したら大変なことになる。護持院は大塚の護国寺に移転となり、護持院跡地は火除地、空地となった。「護持院ヶ原」といったという。
この護持院ヶ原での仇討事件をモチーフにして森鴎外が小説を書いているとか。読まないかん。
そして実はこの護持院ヶ原に作られたのが「洋書調所」。1862年のこと。九段下の蕃書調所(1855)が移転して、一時期、ここにあった。これがまた後に神田エリアに移転して開成所→帝国大学→東京大学となる。
護持院の火災で巨大な火除地が神田橋北側にあった。そこに洋書調所が移転してくる。これも神田が文教エリアとして近代に隆盛を誇るひとつのポイントであったらしい。
付近を歩いていたら幕末の古地図があり、たしかに「護持院上地」と書かれている。「二番明地」「三番明地」とある。かなり広大な敷地。なるほど。こりゃ、学問所の設置に最適そうですな。
湯島聖堂。湯島聖堂は文京区。神田明神は千代田区。
千代田区の地図を見ていると秋葉原も千代田区で、なんとなく神田川以北で収まりが悪い。神田明神は元は平将門公の首塚あたりにあったから千代田区でも、まあ、納得できるが。
東京の区割りは複雑で、ややこしくて、どうも納得がいかないことが多いw
神田大明神。銭形平次の碑。手が込んでいて寛永通宝の上に建てられている。もちろん銭形平次はフィクションであるが、明神下に住んでいるという設定らしい。
銭形平次は岡っ引き。岡っ引きというのは江戸の言葉で上方では「手先」という。警察官僚の下っ端のような存在で、中にはヤクザもんみたいなのも多かったとか。要するに町衆からは嫌われていたりするw
神保町。ランチョン。めちゃくちゃ美味。東京やなあ。こういう名店が残っているのが羨ましい。もはや大阪でも老舗の欧風レストランはなくなっていく。
カトリック神田教会。聖フランシスコ・ザビエル聖堂。明治7年(1874)創設とか。神田の旗本の屋敷地を拝領して作られたとか。
武士階級は江戸幕府の崩壊でアイデンティティ・クライシスとなり、そのさいにキリスト教に帰依する者が多かったとか。主君から救主へ。わからなくもないですな。何か崇高なものに自分の人生を捧げたい。
神田一橋。学士会館。東京大学発祥の地。東京大学はどうも本郷のイメージが強かったんですが、じつは神田から。
この辺りは江戸城の北側。武家屋敷、旗本だらけで。武家は、江戸時代は官吏、官僚ですから。じつは武官でもあるが文官でもあり、儒学などを熱心に学んでいた。元々、そういう文教の場所であったように思います。
神田、神保町の文化レベル、教養レベルの高さは、そういう土地柄に由来するという気がしてならない。近代以前からの伝統。土地の記憶。
なぜ神田、神保町が古書のまちになったのか?が不明で。大学が多かったからという話ではあるが、では、なぜ大学が多かったのか?という謎が生まれ、しかしリサーチしていくと幕末、1855年に九段下に西洋の書物を研究する「蕃書調所」が作られたというのが鍵ではないか?と思い至る。
この蕃書調所は明治初期に九段下から神田一橋に移転し、蕃書調所→洋書調所→開成所→東京大学と繋がっていく。要するに我が国の大学の発祥が神田、神保町界隈ということになるらしい。
ではなぜ蕃書調所が九段下に?というのは当時の図書頭が旗本の竹本正雅(1825〜1868)で、その屋敷地であったので、そこに作られたらしい。この竹本正雅はのちに外国奉行を務めて生麦事件の幕府側の交渉人にもなったとか。
要するに蕃書調所が九段下にできたのは偶然。たまたまではありますが、それが現在の神田、神保町の古書のまちに繋がっているのかも知れない。数奇なる歴史!
九段下にて。寿人遊星。ハレー彗星の記念に彫刻を作ったらしい。頭が長い。福禄寿なのか?ハレー彗星の尾を意識していると思われる。
パブリックアートでんな。千代田区。そういや、ハレー彗星ブームってありましたなあ。