大阪まち歩き大学!谷町を歩く。谷町七丁目交差点東の御神木。かつてはここに法妙寺があったが戦後に大東市に移転。いまはマンションになった。御神木は、その法妙寺の敷地にあったものと聞く。都市計画やら寺院の移転で、結果として、道路のど真ん中に御神木だけ残った。いまも巳さんがいるという。
ほんまは伐採する予定であったという話も聞く。しかし御神木を切ろうと斧を入れたら工事関係者に不幸が起こり、中止になったというような話も聞く。都市伝説の類のようにも思うが、よくわからない。
法妙寺は実は近松門左衛門の妻の菩提寺でもあった。なので近松門左衛門の墓がある。マンションの隅に追いやられている。
これを見るたびにみんな「え?!」と驚いて、わかっている人は「情けない…」という顔をする。ちゃんと国史跡(!)であるが、とてもそのような扱いには見えない。行政の大阪文化への無関心、無理解、無教養を感じて、まち歩きでは必ず訪れるようにしていますw
大蓮寺にて。ビッグイシュー日本さんの共同慰霊碑。ビッグイシューの販売員は過去、2000名を超えるとか。そのうち大体、1割の方がビッグイシューの販売で生活の立て直しができたそうです。ホームレス問題が大手マスメディア、マスコミでクローズアップされだした2003年にビッグイシューは創刊し、まさに社会貢献企業の先駆、パイオニアではないかと思います。
今年で創業20周年らしく仲間の販売員の方で亡くなる方も出てきた。しかし、いろんな諸事情で家族やふるさととは縁が切れていて無縁仏になってしまう人もいる。そういう方の終の住処、心の拠り所としてビッグイシューの共同慰霊碑を建てることになったようです。
大阪では下寺町の浄土宗大蓮寺。東京では山谷にある浄土宗寺院の光照院さんに共同慰霊碑が建立されました。ビッグイシューファンの方、関わりのある方、機会があればぜひともお参り、合掌してください。
四天王寺の北東(鬼門)に位置するのが五条宮。ご祭神は聖徳太子の叔父にあたる敏達天皇という。この辺りの神社は四天王寺ゆかりのお宮さんが多い。四天王寺といえば聖徳太子。だから太子の親戚一同がご祭神として祀られていたりする。
例えば四天王寺七宮(四天王寺を守護するお宮さん。大江、上之宮、小儀、久保、土塔、堀越、河堀稲生)にもなっている大江神社は欽明天皇で、この人は聖徳太子の祖父である。「仏教公伝」はこの欽明天皇時代のことなので、仏教=四天王寺にも深く影響した人物といえるだろう。
また堀越神社と河堀稲生神社は太子の叔父である崇峻天皇がご祭神として祀られている。崇峻天皇は日本の正史に「暗殺された」と明記されている唯一の天皇で、だから「残念さま」「怨霊神=御霊さま」ともいえる。恨み辛み怒り苦しみ哀しみを残した神さまほど霊力が強い。災い転じて福と為すで四天王寺を守護してくれる。七宮にはもってこいのご祭神かもしれない。
ちなみに崇峻天皇を暗殺した人物は東漢駒。東漢(やまとのあや)はその名の通り、漢の国からやってきた渡来人系で後漢の霊帝の子孫と称していた。この辺は本当かどうかはわからないが日本に帰化した後は坂上氏となった。じつは東漢駒は征夷大将軍・坂上田村麻呂の先祖でもある。
あと四天王寺、太子関連の神社では元々、四天王寺があったという鵲森宮があり、こちらは用明天皇(父)がご祭神として祀られている。用明天皇は天皇の位についたが、即位後すぐに当時流行していた天然痘で夭折してしまった。
仏教伝来で、どんどんと大陸と日本の交流が増えるにつれて、じつは日本国中で伝染病が蔓延した。大陸から渡来人たち(僧侶)が来るということは未知の細菌、ウィルスと日本人が接触するということでもある。
それを何とかしようと太子が施薬院、療病院、敬田院、悲田院など「四箇院」を作り、これが四天王寺のはじまりともいうが、病原菌を広めるのも渡来人(僧侶)たちであったし、病気を治す仏教を広めるのも渡来人たちで、要するにマッチポンプといえなくもないw
五条宮の「五条」の由来が謎で、古代の首都・難波宮の時代の条里制の名残で五条の位置に当たるから…という説がある。実際に難波宮から四天王寺までは約3.2キロほどで、古代の一条は諸説あるが大体、650メートルというから五条に相当するといわれても、それほど不思議ではない。京都に五條天神社があり、これは五条の通りにあったというところから名づけられているらしいので、五条宮が難波宮の五条から来ている可能性は十分にありえるだろう。
僕が五条宮で気になっているのは「四天王寺七宮に入っていないこと」で、ご祭神が敏達天皇で位置としても四天王寺の鬼門に当たり、七宮に入っていても全くおかしくないように思うのだが、なぜか入っていない。謎です。
天和(1681~1684)年間の鳥居があったという古文献が残っている。また「玉手松」という松が有名であったらしい。いまは樹齢500年を超えるというイチョウがご神木として崇敬されている。
いわきの小川郷。やたらと近代に凄い人材を輩出していて(磐城慶隆、白井遠平、永井元蔵、田久彌七、國府田敬三郎、櫛田民蔵、草野義一、草野心平、松本政春…)一体、この地域はなんや?と思っていたが、他のエリアと違って近世、長く天領であったことの影響はやはり見逃せないのではないだろうか?
磐城平藩・内藤家を揺るがした元文三年一揆(1737)の主導者のひとりが、じつは柴原(小川町柴原)の吉田長治兵衛という。Wikipediaにも記載されている。
■吉田長治兵衛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%B2%BB%E5%85%B5%E8%A1%9B
この一揆は2万人が参画したという大規模なもので、さすがにこれだけの大騒動となると藩主も御咎めを逃れることができない。結果として内藤家はいわきから遥に遠い宮崎県の延岡に国替えされた。
ちなみに、この「福島いわき市→宮崎県延岡市」というのは江戸時代の大名の国替えの距離としては最長記録になるという。いわきの人から「どうだ!最長記録だぞ!」と自慢げに語られたことがあるw
元文一揆以降、吉田長治兵衛の故郷である柴原周辺(上平、柴原、上小川、福岡)の郷村は、やはり幕府から特別視されたのであろう。延享4年(1747)に磐城平藩ではなくて幕府直轄の天領となった。そして幕末まで、小川郷はずっと天領として統治された。これは他のエリアにはない地域の特色、特徴といえる。
また小川郷に代官所があったというわけではなくて、じつは小名浜が同じく天領で、そちらに代官所があったので、そこの代官が小川郷を管轄していたらしい。この小名浜の代官との繋がりが見受けられるのが小川郷の常慶寺にある「天明飢饉の碑」。
天明の大飢饉に襲われたさいに小名浜の代官・蔭山外記が救民策を行い、その善政に感謝して建立されたものという。飢饉といった危機的な状況が起きれば小名浜から代官がやってきて、いろいろと検分するわけで、どこか小名浜の気風、気質が小川郷の人たちに伝わるだろうし、感化されていったことだろう。
しかし小名浜と小川郷はあまりに遠い。ちょっとした日常的な、些末な事件や事故などは、わざわざ小名浜の代官にいわずとも、小川郷内で解決するというか、庄屋たちに裁量を任されていたに違いないだろう。小名浜がいわき市内の中では天領気質というか「他藩とは違う」という雰囲気が感じられるが、小川郷などは、さらに幕府の代官も常駐していないので、より自治的な雰囲気があっただろうと推察する。
そして、それが小川郷民の地域独特の自治精神や、独立心の由来になったのではないだろうか。戊辰戦争で幕府が倒れて近代化が推し進められると小川郷からやたらと綺羅星の如く偉人たちが輩出される。そのマトリックスに、この小川郷の風土が当然、影響しているだろう。
#いわき時空散走
ジャニー喜多川は1931年生まれだが、1933年、2歳の頃には家族と共に大阪に移住し、終戦まで育っている。太平洋戦争中は一時、和歌山に疎開したが、育ちとしては大阪人といってもいいだろう。
父の喜多川諦道(たいどう)は大分出身の高野山真言宗の僧侶だが、若き頃に渡米して布教活動に専念している。帰国後、大阪に住んだが大阪では夫婦ぜんざい屋やおかき屋をやっていたという。戦後は一時期、プロ野球チーム「ゴールドスター」(千葉ロッテマリーンズの前身)のマネージャーを務めたりもした。ジャニー喜多川は父の経歴のこともあり、少年野球チーム「ジャニーズ」を結成している。
高野山真言宗が海外布教に意欲的だった時代にエリート僧として米国で活躍したのが喜多川諦道であった。米国時代に結成した「ボーイスカウト第379隊」は当時、人種差別を許さない平等主義のボーイスカウトとしてアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトにも表敬されたという。
戦後、喜多川一家が住んでいたのが大阪市南区新川町二丁目。現在でいえば難波中三丁目で、なんばパークスと大阪体育館のあいだ。夫婦ぜんざい屋は九郎右衛門町にあった。現在でいえば西道頓堀界隈となる。
喜多川諦道は晩年まで大阪でぜんざい屋を営んでいたという。
東京七墓巡り復活プロジェクト2023。二日目。
最後は江戸川区瑞江の大雲寺・五世坂東彦五郎墓所へ。ここは役者寺といわれるほど歌舞伎役者の墓が多い。こちらでは住職にお会いできて、いろいろと寺院移転の顛末についてお話を聞くことができました。
関東大震災のさいは檀信徒のみなさんが大八車で家財道具を持って大雲寺(当時は墨田区業平にあった。スカイツリーの南側)に逃げてきたそうですが古老は大八車での移動を辞めさせ、荷物は手に持てるだけの量にしろと助言したとか。また荷物を背負うのも辞めさせた。もし火の粉が飛んできて荷物が燃え移っても後背にあるので様子が見えない。気がついたら背中が火だるまになるということらしい。
さらに「隅田川には絶対に行くな。亀戸の方角に逃げろ」とアドバイスしたそうで大雲寺の檀信徒のみなさんは亀戸の浄心寺に避難。そこから荒川を越えて葛飾の方に逃げて助かったとか。
この古老のアドバイスを聞いてわかるのは関東大震災以前にも江戸時代から何度も何度も江戸(東京)は地震や火災があり、その経験の蓄積で、ちゃんと避難ルートを把握していた人がいたということ。「隅田川には絶対に行くな」というのは達見で、ここが関東大震災最大の被害場所(炎の竜巻の現場)ですから大勢の檀信徒の命を守ることに繋がったと思われます。
また関東大震災の犠牲者は一端、某所に集められて土葬にし、その後、順次、掘り起こして火葬で荼毘に付されたとか。あまりにも犠牲者の数が多く御遺骨も凄まじい量となり、それらは浅草近辺の寺院に分配され、供養されたそうです。大雲寺にも御遺骨がきて、それは御本尊の阿弥陀如来さまの中に収められたとか。お骨仏ということですな。
また墨田区業平から江戸川区瑞江に移ってきたのは震災復興の都市計画の影響だそうで瑞江の浄土宗寺院の敷地を買い取ったとか。いまは業平にはほとんど檀信徒さんはいないという。みんな震災や東京大空襲などで住まいが移転していったようです。これは大雲寺に限らず、東京の寺院あるあるのようですが。
大変貴重なお話をお聞きできて東京七墓巡り二日目のハイライトでした。ありがとうございました。南無阿弥陀仏
東京七墓巡り復活プロジェクトは饗庭篁村の讀賣新聞附録『七墓巡り』の明治22年(1889)の記事から企画された。
幸田露伴によれば饗庭篁村と須藤南翠の2人こそは明治初期を代表する「二文星」「当時の小説壇の二巨星」であったという。「明治文学の二巨星」といえば森鷗外、夏目漱石の名が浮かぶし、通人は前世代である紅露時代(尾崎紅葉、幸田露伴)の名などを挙げるかも知れないが、それよりももうひと世代前の巨匠が饗庭篁村、須藤南翠ということになるらしい。
なかなか巷間からは忘れ去られた存在であるが篁村・南翠は俗に「根岸党」と呼ばれ、そして篁村はその根岸党のリーダーとして君臨し、岡倉天心や陸羯南(正岡子規の師匠)などと親交があったという。
また、これまたあまり知られていないが岡倉天心らが創刊した『國華』は現在でも刊行され、世界でも最も古い近代美術雑誌の一つであるが、これの名付け親が篁村だったりする。篁村は近代日本・明治日本の文学、美術、芸術の黎明期に活躍、貢献した作家であり、非常に重要な仕事を担った人物であるといえる。
また前述した幸田露伴(1867年生まれ)も根岸党のメンバーではあるが、篁村(1855年生まれ)よりも12歳ほど年下で、根岸党の中では若手の有望株といった存在であったらしい。
年齢としては12歳ほどの違いに過ぎないのだが、この12年の差は頗る大きい。なんせ江戸幕府が倒れ、明治新政府が起こった御一新(1867)のターニングポイントの時代であり、要するに0歳の露伴は「江戸」を知らないが、12歳の篁村は「江戸」を肌感覚として知っている。「江戸」が倒れ、崩壊し、「東京」が誕生した、その瞬間を篁村は体験している。多感な10代の若者に与えた影響は凄まじかろう。
篁村の七墓巡りは、その「江戸」の偉大なる文人墨客たちを巡る墓参りコースとなっている。根岸党の連中が上野・寛永寺の清水堂(ここは戊辰戦争・上野戦争でも唯一焼失を免れた寛永寺の塔頭寺院であった。まさしく生き残った江戸の象徴的建造物であったといえる)に集まり、七墓巡りを企画し、選ばれたのが山東京伝、四世鶴屋南北、坂東彦三郎、平賀源内、新井白石、葛飾北斎、十返舎一九、安藤(歌川)広重などであったが、これは東京七墓巡りというよりは、その目的や精神としては紛れもなく「江戸七墓巡り」であろう。
篁村や根岸党の高踏的な江戸趣味、江戸芸術への憧憬、失われつつあった江戸文化への挽歌、鎮魂、レクイエムのような意味合い、意味付けが非常に色濃い。今回、10年ぶりに、久しぶりに東京七墓巡りをやってみて、その思いを改めて強くした。
そもそも「七墓巡り」が企画され、讀賣新聞附録として記事が出た明治22年(1889)は大日本帝国憲法発布の年であったりする。戊辰戦争、御一新から明治革命は続くが、その最後の総仕上げが大日本帝国憲法の発布であった。近代日本がついに完成し、東京という近代都市が始動を始めていく、その瞬間に、ひっそりと篁村・根岸党の連中は「七墓巡り」で江戸の先人たちを回顧し、礼拝し、見送った。
「七墓巡り」の記事を発表した後、篁村は東京朝日新聞に移り、「竹の屋主人」のペンネームで劇評家、演劇評論家として活躍する。東京専門学校(早稲田)で近松門左衛門を講義したりもしたらしい。そして大正11年(1922)に67歳で亡くなった。その翌年に東京を襲ったのが関東大震災(1923)である。
関東大震災と、その後の「帝都復興」によって東京という近代都市は劇的な変化を遂げていく。篁村・根岸党が巡った「七墓」の寺院なども震災被害に遭い、東京郊外に移っていった。篁村・根岸党の江戸を憧憬した「江戸七墓巡り」もこの瞬間に瓦解し、地上から消滅したといえる。
篁村はその「震災と復興」を観なかった。彼の人生を思えば、それは幸いではなかったかと思う。
※画像は東京都慰霊堂。関東大震災、東京大空襲の死者のための慰霊施設。
今年の大阪七墓巡り復活プロジェクトでは大阪石材の安達 裕樹さんが作ってくれた「大阪七墓新聞」を発行して配布しました。
七墓の跡地に供養塚、顕彰碑を建てよう!というプロジェクトです。南濱墓地の石碑や葭原墓地跡のプレートには「大阪七墓」と刻まれていたりするのですが、梅田、蒲生、小橋、千日、飛田などには石碑などがなく、どこにも七墓の文字がありません。
あったらいいなぁと漠然と思ったりはしていましたが、大阪石材の安達さんから「石碑はうち、作りますから」と唆され(?)、では、とりあえずそんな計画があるという事を発表しようと思い至りました。
しかし大阪七墓巡り復活プロジェクトには全くお金がなく、場所の問題(碑の設置には土地の権利者の許可が必要です)もあり、なにから手をつけていいのやら…なんですが、とりあえずそんなことを考えているということです。
ひとまずは場所の許可でしょうねぇ。OKが出たらクラファンを実施する予定ですが、いつになることやら…。そしてお金が集まるのやら…。
国立新美術館の隣が青山霊園。大久保利通の墓をお参りする。
日本の近代化を成し遂げるために大久保利通が導入したのがドイツ式の官僚統制国家体制。いまだに日本は官僚統制国家で、「ザイム真理教」なんて言葉も、その現れでしょう。
昭和初期の帝國陸軍は大陸に侵出して戦線をどんどんと拡大していく。予算が足りない。御前会議で「海軍予算を陸軍に回せ」と言い出した。
特に大きな戦争のない帝國海軍は、このままでは組織を存続できない。その焦りが海軍の大戦争…真珠湾攻撃、太平洋戦争拡大へと繋がる。結果として帝國日本は中国とアメリカを同時に攻めるという二面作戦となる。どう考えても全く持って無理、無茶、無謀な戦争となった。
結局、帝國陸軍は帝國陸軍の、帝國海軍は帝國海軍の利益しか考えない。官僚主義は、自分たちが所属する組織の利益=「省益」しか考えない。「国益」を考えない。それが現代日本の宿痾となっている。その宿痾を宿したのが大久保利通。
国益のために省庁、官僚をコントロールしないといけないのが政治家の役割。ところが政治家は官僚の言いなり。野党政治家の質問は前もって官僚に提出され、与党政治家は官僚の用意した答弁を読むだけ。一体、何をしているのかサッパリわからない。
そういう官僚の言いなりの政治家を投票して(半分以上、投票してないんですが)選んでいるのが我々、国民ですからな。政治家はまた官僚のいいなりやし、さらに世襲やったりする。
官僚にベッタリの世襲政治家と、省益しか考えない官僚統制と、それに無関心な国民の三重苦。あと官僚、政治家をご接待して公金を中抜きする寄生企業と、ジェンダーに無理解のマチズモ社会と、あわせて五重苦かな。現代日本社会の宿痾は。
福島県白河市。お試し住宅「まちなかベース」にて。関谷農園さん、有賀酒造さんもご参加頂いて交流会。
お試し住宅というのは白河移住を考えている方のために、文字通り、お試しで、ちょっと1週間ほど白河に滞在してみませんか?というもの。なんと1週間あたり7000円という破格のお値段で白河のまちなかに宿泊することができるという。
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/sp/page/page008274.html
東京、関東県ではコロナ禍の影響でリモートワークが増加しました。すべてオンラインの完全フルリモートの会社や労働形態も珍しくない。もはやそうなると、わざわざ家賃の高い東京に住んでいる必要がない。
白河は北関東・栃木県の那須の隣で、東北の玄関口(白河の関)だが、東京・上野駅から東北新幹線を使えば新白河駅まで約90分ほどで到着する。大阪から白河までは遠いが、意外と東京・関東圏から白河は近い。
いままでは地方に移住となると、ひとまず仕事を用意するということが絶対条件、必須条件だった。しかしリモートワークの時代には仕事は東京、大都市圏で賄う。地方移住の決め手は仕事の要件、条件ではなく、もっと生活者のインフラになってくる。
快適で安価な不動産物件があるか?新鮮な野菜や肉、魚が買えるスーパーマーケットがあるか?保育・子育て・教育の公的機関の充実、支援制度はどうか?週末に家族で楽しめる、遊べるレジャー、リラクゼーションの施設や空間があるか?いざという時のための病院、医療機関のインフラや防災体制は大丈夫か?そういうことが決め手になってくる。
しかし、なによりも都会人には地方の風土や人との関わり方の距離感が大事になってくると思われる。あんまり他者に対して遠慮がなく、馴れ馴れしく踏み込んでくるのも苦手だろうし、余所者に対して排外的で冷淡なのも困る。地方ではあるが、じつは都会的なものへのセンス、アンテナがあるというのが非常に重要な移住者の要素になってくる。
そして、そういうセンスやアンテナが結構ちゃんと備わっていてるのが白河ではないかと僕は睨んでいる。白河は歴史的には奥州街道の宿場町で、東北文化圏と関東文化圏の結節点のようなところにある。
また宿場町というのは旅人を常に受け連れて発展してきた。他者に開かれている。おもてなしができると同時に、じつはドライでもある。旅人や他者にそれほど過度に期待などしない。このおもてなしとドライさという匙加減が、じつは難しい。
これが単なる農村では、そういう他者との交流の文化的な背景が育たない。農村部はやはり(宿場町、商業都市などに比べれば)閉鎖的な集落で、人と人との交流は、人間関係が近すぎて、コミュニティが濃厚すぎて、都会人は、その距離感に戸惑う。
これは余談だが、いま日本全国各地で地域おこし協力隊などがトラブル(?)になったりしているが、これは結局は都会人と地方人の「他者との関わり方」「人との距離感」の相違によるコミュニケーション不全が問題の一因だろうと思う。
白河は、おもてなしをちゃんとしてくれる。でも、ちゃんと「ほったらかし」もしてくれるんですw
それは例えばコミュニティカフェ・エマノンにいけばわかります。ここは特に高校生たちが、自由に行き来してますが、エマノンのスタッフと高校生たちは、微妙な人間関係の距離感で成り立っている。近すぎず。遠すぎず。あつくもなく、つめたくもなく。
つまり、おもてなしをするし、ほったらかしもする。これが良い。これがないと、じつは僕みたいなシティボーイ(ま、僕は単なるコミュ障かもしれないがw)は困るんです。
ひとりになりたい時もある。そのくせ、さみしい時には、適度に相手してくれる。それができるか?できないか?じつは都会人の移住者を増やしたい時は、こういう塩梅が非常に重要なファクターとなる。
生活の条件とかインフラとか、そういったハードウェアは、ある程度は資本などで用意できるでしょう。でも「人との距離感」といったヒューマンウェアは、そんなのは一朝一夕には育たない。用意できない。簡単に作り上げることはできない。
こういうヒューマンウェアは教育でも難しい。風土や街場。歴史。文化。言葉。そういうものに培われてきた教養というものです。
おもてなしとほったらかしのええ塩梅。それが白河にはある。東京、関東圏、都市圏の移住者を増やしていく上では、これは非常に重要なアドバンテージやないかと僕は思ってます。