【いわき時空散走】四倉の上仁井田にある「旅館なぎさ亭」に泊まる。玄関に草野心平の詩が掲げられていた。晩年、よく宿泊に来ていたらしい。三階に海が一望できる部屋があり、そこがお気に入りであったとか。しかし残念ながら東日本大震災の被害に遭い、旅館は新しく建替え(三階建てから二階建てに)となり、草野心平が愛した部屋は無くなってしまった。無念。
創業は百年ぐらい。今の若女将さんで4代目で美味しい朝食を頂き、そのあとに少し話を聞いたら、じつは当初は貸ボート家だったとか。貸ボート屋をやっているうちに常連客が泊りだし、もうそれなら旅館やるか…ということで旅館業を始めたとか。面白い。
美しい海岸が名物で、いま80代70代の地元の方が若い頃は、この辺りがデートスポットだったらしい。ここでプロポーズして結ばれたというご夫婦も多いとか。青春の思い出の旅館ということだろう。
若女将さんはインスタでノレルの活動をチェックしておられたそうで、なんと僕のことも知っていた。「四倉の山の方に何があるのか全然知らなかった。(マップを見て)初めてこんなにいろんなものがあると知りました」とお褒め頂いた。恐悦至極。ありがたいことです。またちゃんとマップが完成したら持っていきます。エレベーターや玄関に貼って欲しいなw
いわき時空散走の取り組みがいわき、四倉のみなさんの地域の掘り起こしに繋がれば本当に嬉しい。なぎさ亭は自転車ユーザーの泊り客も多いとか。是非ともいわき時空散走マップをみて走ってみてほしい。
【いわき時空散走】植田・佐糠・金山ツアー。
いわき時空散走は「ガイド」がいません。その代わりに「サポーター」さんがいます。今回のツアーのサポーターは佐糠育ちの正木りなさん。誰をサポートするか?というとツアーの参加者をサポートする。あくまでもツアーの主役は参加者です。
「わがまちを巡ろう、遊ぼう、語ろう」というのがコミュニティ・ツーリズムだから、参加者が「わがまち(いわき、植田・佐糠・金山)についての思い出や知っていることや体験談を話す。それを引き出すのがサポーターの役割です。ツアー参加者の語りのファシリテーターであり、「聞き役」といってもいい。
いままでのツアーはガイドが語りすぎました。喋りすぎました。能弁、雄弁なガイドがいると、じつはツアー参加者の「わがまち」への多様な語りが封じられます。
わがまちについて稚拙でもいいし朴訥でもいいから自分自身の言葉で、その人なりの語りで、語ること。喋ること。それが許されること。ツアー中に、その機会がたくさんあればあるほど、ツアー参加者のわがまち意識を醸成させ、「自分もまちのプレイヤーなんだ」という当事者意識を芽生えさせ、活性化させる。
今回のツアー中も、いろんな方のいろんな語りがでてきました。小学生のさわちゃんの某施設の体験談なんかも飛び出して面白かったw さわちゃん、ありがとう!( ´ ▽ ` )
駄菓子屋で駄菓子を買い、サポーターの正木りなちゃんの実家(猪狩商店跡。かつては勿来火力発電所の労働者のみなさんの溜まり場で、ちょっとお酒を飲めたり、日用品が買えたりしたらしい)で車座になって駄菓子を食べながらオススメ駄菓子を語り合う。美智子様にお出しした湯呑みを拝見し(何の変哲もない。ふつうの湯呑みですがw)、正木家の猫を撫でて、シャボン玉を飛ばすw そんなツアーがかつてあっただろうか?w
ガイド一人が喋るのではなく、参加者同士が双方向に喋り合う。モノフォニック(一声)ではなくポリフォニック(多声)であれ。コミュニティ・ツーリズムの真髄、醍醐味はそこにあります。いわき時空散走は、そのためのプロジェクトです。
◼️いわき時空散走
https://note.com/noreruiwaki/n/na01c7ea5aa98
いわき時空散走!スタッフのみのショルダーバッグ。かわいい( ´ ▽ ` )
売れるんちゃいまっかw
◼️いわき時空散走
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和泉そぞろ。坪井町まち歩き。
和泉でもトップクラスに古い名族が仏並町の池辺一族。
池辺氏の祖先である池辺直氷田は蘇我馬子から仏像二体を贈られ、それが仏並寺(仏並町にいまもある)のはじまりという。ほんまかいな?と半信半疑であったが池辺直氷田は『日本書紀』にもちゃんと名前やエピソードが記載されているという仏教者で、どうも本当の話のようで、ひっくり返った。PDFマップは以下からダウンロードできます。
■和泉そぞろ:和泉市でも最古級の歴史を有する仏並を歩く!
https://satomachi-izumi.com/wp-content/uploads/4f17a75fb6c6edaa5d1e42ad3f220909-1.pdf
仏並町の事を調べているうちに気になったのが隣町の坪井町。ここはここで彦五瀬命・神武天皇の兄弟が立ち寄ったとか、これまたほんまかいな?の伝説、伝承があり、まあ、いま和泉そぞろのマップを作成中だから楽しみにしといてください。
坪井町を歩いていて気になるのが、まちのあちらこちらで見られるお地蔵さんやら石仏やら石神さま。家の囲い(塀)のあいまにお地蔵さんがあって、なんやこれは?と確認したら「奉不食供養」と書かれてあった。※文字が風化して消えかかっているが、おそらく不食供養であろうと推測する。
じつはこの辺りは不食信仰という地域独自、独特の風習があった。和泉・父鬼街道沿いの集落に多いそうですが、月に1回、「不食」の日があって、その日は文字通り何も食べない。断食をする。女性の信仰であるらしい。何も食べずに女性たちが集まって、お堂などで夜更かしして喋りあったという。
今も昔も人間の悩みというのはそれほど変わらない。女性だけの会だから夫への不満やら舅姑への愚痴とか、そういったことを話しあうのだろうと思われる。食事をしないから腹が減って、いつもよりもイライラするだろうが、腹が減りすぎては怒りのボルテージも続かなくなる。徹夜の長丁場だから尚更しんどい。そうやって怒りを吐き出して、やがて諦観の境地に至るのかも知れない。
おそらく徹夜明けには不食の行も終えて、お粥か何かカラダにやさしいものを食べて気分を落ち着かせる。朝になれば空腹感が満たされ、幸福感になり、なにもかも不食さまのおかげですありがたやありがたや…という心境になるのではないだろうか。よくできている。知らんけど。
大阪まち歩き大学!阿波座を歩く。
薩摩堀川跡の石碑が建つのが薩摩堀公園。この薩摩堀公園には「八紘一宇」の石碑がある。いや、石碑のように見えるが実は国旗掲揚台で「皇紀二千六百年記念」のために昭和15年(1940)に「廣教部内各會」が建立したとある。
かつて公園の隣接地に「廣教国民学校」があり、そこの部会が作ったものということだろう。この国民学校は昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失した。戦後、合併されて廃校となったが現在の明治小学校に繋がる。
国旗掲揚台が作られた皇紀二千六百年(1940)10月に大政翼賛会が発足し、日本は全体主義国家となる。翌年(1941)12月には真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まり、そして開戦からわずか3年3ヶ月後の1945年3月には日本国中にB29が襲来し、焼け野原、焦土と化した。
全体主義は亡国の道。政治の舵取りを誤った方角に進めると国家といえどもアッという間に呆気なく崩壊する。物々しい八紘一宇の国旗掲揚台だけがポツンと公園の隅に残される。
天王寺区細工谷にあるのが、桃山病院の殉教者慰霊碑。桃山病院(桃山避病院)は明治20年に建てられた大阪初の伝染病専用の病院だった。
江戸時代は鎖国体制で日本人はなかなか外国人と触れ合うこともなかったが、明治維新を迎えて開国すると外国人が一気に日本国内で増加した。当時の日本人にはまったく外来の細菌、ウィルスへの免疫がない。ヨーロッパ、アメリカで流行していたコレラ、ペスト、天然痘などが猛威を震い、明治・大正・昭和初期の日本国民、大阪市民の生命を脅かした。
特に衝撃であったのがペストで、大阪の第一次流行(1899~1900)では161名の患者のうち死者146名(致死率90.7%)、第二次流行(1905~1910)では958名の患者で死者860名(致死率89.8%)という大惨事となった。
致死率90パーセント超えとは恐るべき死病であるが、あまりにも致死率が高いので、皮肉なことだが、それほど患者数は増えなかった。広まる前に患者が死んでしまう。いまアフリカのエボラなどが致死率90パーセント超えらしいが、なかなか世界的に広まらないのはそういう理由があるとか。いや、しかし、それもこの地球大移動、大交流の時代にはわからない。
伝染病の恐怖というのはコロナでイヤというほど体験した。都市機能、社会インフラがストップしてしまう。こんなのは二度とごめんやと思うが、地球温暖化や環境破壊などで自然界の生物と人類の接触がどんどんと増えていく。未知なるウィルスが人間という触媒によって、どう進化するかわからない。
マイクロソフト創業者のビル・ゲイツはいま伝染病関連の研究、防疫などを事業にしているらしいが、今後の世界は10年に1回の割合でコロナ級のパンデミックに襲われる可能性があると予測している。10年に1回てあーた、信貴山の秘仏・毘沙門天のご開帳(12年に1回)より早いがな。善光寺のご開帳(7年に1回)より遅いけどって何をいっているのかよくわからなくなってきた。とりあえずパンデミックは勘弁して欲しいが、起こった時はしゃあない。そん時はまた陸奥賢はひとりでオンライン薬師巡礼をします。
細工谷のまち歩きでコロナ前は、この石碑についてもあんまり触れることはなかったが、コロナ以降は必ず立ち寄るようにしている。大衆が右往左往するのが都市。人間が行き交うということは、それだけ伝染病のリスクは高まる。都市の大敵とは伝染病であった。リスクマネジメントの意味も込めてお参りしている。
石碑は昭和12年に建立された。裏に碑文が書かれているが「伝染病の現場は戦場そのもので病院関係者は軍人のようなものである」と、なかなか勇ましい。「殉教」というのが正義として叫ばれていた時代精神であろう。
昭和12年(1937)、御堂筋拡張工事によって大阪の中枢であった船場が真っ二つに分断されてしまう。モータリゼーション(車社会)のために作られた幅44メートルの幹線道路が船場・大阪に与えた影響は甚大であった。とくに船場の西側に集積していた宗教施設と船場の町衆が御堂筋によって切り離されてしまった。
じつは御霊神社、北御堂、坐摩神社、南御堂、難波神社といった寺社仏閣こそが船場商人、船場の町衆の精神的な拠り所であり、アイデンティティの根源でもあった。実際に「御堂さんの瓦の見えるところ」「御堂さんの鐘の音が聞こえるところ」でお商売をする…というのが船場商人の誇りであり、成功のステータスであったという。
また船場商人は朝起きると東の生駒山の朝日を礼拝し、家人一同で拍手を打ち、夕刻、仕事納めには夕陽に照らされた御堂さんに南無阿弥陀仏と唱えて一日を締めくくったとか。「朝拍手・夕念仏」とでもいうべきか。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではないが、船場商人のマトリックスに宗教(浄土教)が果たした役割は非常に大きい。
さらに船場の寺社仏閣は宗教的な場であるだけでなく文化・芸術の場であり、娯楽・遊興の場でもあった。御霊神社に御霊文楽座、難波神社に稲荷社文楽座があり、坐摩神社こそは上方落語寄席の発祥の地でもあった。
寺社仏閣で行われる出開帳や夜市・夜店というのも宗教的なものであり、遊興的なものでもあった。これらの多くは神仏のご縁日に行われたが、単なる催事ではなく祭事であった。イベントではなく神事や仏事であった。それが船場コミュニティの核であり、要となった。
都市はただ経済的な価値観だけで構築、形成されるものではない。そこに生まれ、育ち、学び、遊び、人と出会い、知人・友人ができ、恋愛をし、働き、次世代を育て、老い、死んでいくという死生の場であることが都市機能を拡充させ、都市を都市たらしめる。NYの肝っ玉母ちゃんのジェイン・ジェイコブズが『アメリカ大都市死と生』の中で看破したように、都市は多義的で多様的で複雑怪奇な有機体でなければならない。
ゾーニングして「商業エリア」「居住エリア」「工場エリア」というように機能的で効率的な都市を作とうとしても大抵は失敗する。戦後は都市計画という名の下に寺社仏閣を排除して、赤提灯ひとつない、新興のニュータウンやビジネス街を作ったが、それらの大部分は残念ながら失敗している。住んでいて、味気なく、面白味にかけて、無味乾燥たるゴーストタウンにしか感じられない。
人間はもっとカオスモスな存在で断じて機能的、効率的、合理的な生物ではない。不条理や非合理や苦しみや迷いや闇や祈りや願いやバカ騒ぎやお祭りや七転八倒や迷信やオカルトの中に生きているから、都市もまたそのような場を用意しなければ人はそこに住みつくことはできない。
人間存在は我々、近代人が思う以上に宗教的でスピリチュアルで霊的な存在であるということです。だからこうした宗教的でスピリチュアルで霊性の場であった寺社仏閣と船場の町衆との結びつきを分断した御堂筋拡張工事の罪過は語られなければならない。
その主導者が関一市長で、この人は東京や欧州に学んだ当時、最先端の都市計画の学者先生であった。しかし「大阪・船場の地霊」をよくご存じなかったのではないかと僕は観ている(いや、むしろ大阪の近代化、近代都市化のために、全てわかってやったことなのかも知れない。それはそれで更に罪深い)。御堂筋が完成して80年以上になるが、結局、だから御堂筋は駆逐、淘汰されるような話が最近になって出てきている。
■御堂筋完成100周年をターゲットに「フルモール化」を目指す!御堂筋完成80周年記念事業推進委員会が「御堂筋将来ビジョン」を公表
https://saitoshika-west.com/blog-entry-5154.html
都市の中から車を駆逐しよう、モータリゼーションは辞めようという動きであるが(これは世界的な都市の潮流でもある。歩ける都市こそが都市の魅力であり、価値となる)、このフルモール化によって船場の通りがもう一度、再結合され、とくに船場の町衆と宗教的な場との結びつきの回復が成されることを僕は期待している。
※船場の通りの中で道修町だけは、いまも「神農祭」が行われる。その核となる少彦名神社が道修町の中心(道修町2~3丁目)に近いエリアに位置していることの影響は大きい。出店もその範囲ででる。御堂筋よりも西(道修町4丁目)、堺筋よりも東(道修町1丁目)では神農祭の出店はない。御堂筋、堺筋の幹線道路が道修町の祭事(町衆)を分断していることがよくわかる。
祭事があるので道修町の町衆は他の船場の通りに比べて結束力が高い。薬関係の会社も意外と大阪から出ていかない。東京に本社、大阪の本店といった二社体制であったりする。
これは天神祭がある天満の町衆にもそういった傾向がみられる。祭事、神事、仏事が町衆を都市に繋ぎとめる。氏神・氏子、寺檀関係という前近代的な旧習が実は都市の経済的な価値観を高めていたりする。
ビッグカメラ(エスカールビル)北側にあるのが光明地蔵尊。千日デパート火災(1972年5月13日。死者118名で日本のビル火災史上最悪の大惨事となった)の犠牲者の供養のために、かつて千日デパートにテナント出店していた方が私費で建立したという。前を通って時間があるときは合掌している。
じつは本格的な供養碑は高野山大霊園にある。いまも毎年5月に遺族、関係者で供養の法要が行われているとか。
「ミナミの六地蔵」のひとつでもある。光明地蔵尊以外は法善寺の水掛不動尊、道頓堀出世地蔵尊、高津十番町地蔵尊、榎地蔵尊、身代矢受地蔵尊。毎年、地蔵盆のさいに千日供養の練り歩きが行われている。
ミナミ、千日前は大阪七墓のひとつ・千日墓地があったところ。江戸時代最大の火葬場で、江戸時代を通じて約200万人以上が荼毘に付されたという。江戸時代末期には埋葬地が足らなくなり、御遺骨が山のように積まれて文字通り灰山と呼ばれた。
かつての千日墓地の死者たちへの供養とミナミの発展を願い、100人以上の僧侶、山伏が練り歩きをする。圧巻です。道ゆく人も思わず足を止める。
いわき時空散走は「コミュニティ・サイクル・ツーリズム」です。コミュニティ・ツーリズムの自転車バージョンといったような意味で僕は使ってます。
僕は長く大阪・関西でコミュニティ・ツーリズム(まち歩き)の仕掛け人、プロデューサーとして活動してきました。コミュニティ・ツーリズムとは、ひとことでいえば「地産地消の観光」です。
観光というとコミュニティ外から人を呼ぶ、集客するという発想に囚われがちです。これは「大衆」(マス)に向けてのプロモーションなのでマス・ツーリズムともいいます。「大衆」は「顔が見えない人たち」といってもいいでしょう。
それに対してコミュニティ・ツーリズムは「コミュニティ内の人」…要するに「顔が見える人たち」で「身内」「知人」「友人」「同じまちに住んでいる人」「地域住民」などと一緒に「わがまち」を歩こう、巡ろう、楽しもう、遊ぼう、学ぼうというツーリズムになります。
コミュニティ外から人を呼ぶ観光を「外需の観光」だとするならばコミュニティ内から人を呼ぶコミュニティ・ツーリズムは「内需の観光」といってもいいかも知れません。
コミュニティ・ツーリズムにはいろんな効果があります。そのうちのひとつとして「わがまちを知る」ということが挙げられます。自分が生まれ、育ち、いま暮らしている、わがまちの歴史や文化や物語を知るということは、結果として自分という存在の意味や意義を考えることに繋がります。
人間は社会性の生き物です。想像以上に環境や風土というものに有形無形に影響を受けている。自分の周りの環境、風土を知ると、いままで自分の中にあったが認知されていなかった自己、自我をいろいろと発見します。自分の価値観や世界観、物事の捉え方、考え方、発想がどこから来たのか?その構成要素、環境因子のようなものがわかってくる。アイデンティティの始原がわかってくる。
自分という存在の中に「ふるさとの遺伝子」を観る。その自覚によって、はじめて愛郷心も育まれていきます。自分のまちだから、自分を育ててくれた地域だから、よりよい社会にしたいという意欲が自覚が芽生えるし、まちのプレイヤー、コミュニティの当事者となっていきます。
コミュニティ・ツーリズムのツアー参加者は、みんな同じ地域社会の一員なのだから、だから誰でも「わがまち」について語っていいし、そのまちに関する「思い出」や「記憶」や「想い」を多かれ少なかれ持っているだろうと思います。
いわき時空散走が、一緒にまちを巡る人を「サポーター」と呼ぶ理由はそこにあります。つまり「ガイド」ではなくて「サポーター」という呼称を使うのはツアーの主役はガイドではなくて「ツアー参加者全員」がツアーの主役になって下さい、いろんなお話をしてくださいというメッセージを込めています。
ツアー参加者同士が主体的に、能動的に、「わがまち」の知っていることや思い出話や「聞いたことある」程度の何気ない事を、自由闊達にお喋りし、語りあい、それをサポーターさんが聞き、広げていく。ある意味、サポーターさんはファシリテーターのような役割を果たします。
地域やまち、コミュニティに関係ない、携わっていない外部の大衆を相手にするマスツーリズムのガイドには、ある意味、地域やまち、コミュニティの代表者として、先生であり、教師であり、牽引役であり、ナビゲーターであり、なんでも知ってる郷土研究の第一人者であったりする必要がありましたが、コミュニティ・ツーリズムには、あまりそのような存在は必要ではありません。
むしろツアーの参加者は誰も彼もが、同じまちに生きる、まちの人同士なので、まちについて、もっと自由に語っていいはずです。参加者それぞれに「自分のまちはこういうまちなんだ」「こういうところが好きだ」「誇りに思う」「こういうところがダメだと思う」といった「まち語り」が許される。等身大のまちを語る。自分とまちの物語を語る。そういうツアーが可能ですし、それこそがコミュニティ・ツーリズムの醍醐味だといえるでしょう。
いわきの人たちが自転車に乗って、いわき中の多種多様なまち、地域、コミュニティを語り、楽しみ、遊び、面白がっていく。いわき時空散走は、そういうツアー参加者同士が和気藹々と「まち語り」をして、それを許容するコミュニティ・ツーリズムとして始まります。
ひとまず今年の秋は3コース。植田・佐糠・金山コース、小川郷コース、四倉・大野・玉山コースを巡ります。佐糠が実家のリナちゃん、小川郷で園長をやっている櫛田けいこさん、大野・玉山生まれ育ちで演劇の役者でもある松本さんがサポーターに。めちゃくちゃ面白いです。ぜひとも情報をチェックしてください。
■「いわき時空散走フェスティバル2023」開催!
https://note.com/noreruiwaki/n/na01c7ea5aa98
大阪まち歩き大学!堺市役所21階ロビーにて。さいとうたかを展。無料。
さいとうたかをの「劇画」は日本の漫画界に彗星の如く、突然変異のように現れた。あれは和泉・信太山がGHQに占領されて(戦前、帝國陸軍の演習場であった。現在も自衛隊の駐屯地)そこに駐在していた米兵が読んでいたアメコミがルーツ。
さいとうたかをは堺・福泉あたりで生まれ育ったが、こどもの頃は、よく近くの信太山に忍び込んで米兵が読み捨てたアメコミ(10セントブックス)をコツコツと拾っていたらしい。
この手の10セントブックスは、いまでは貴重なアイテムとして高値で取引されたりするらしいが、当時は戦場で鬱屈している米兵の慰安のために作られた劣悪本、粗悪本に過ぎず、中身も基本、エロとグロとバイオレンスしかない。
しかし、それがさいとうたかをの劇画の世界を作り上げた。要するにディズニー的(それはつまり手塚治虫的な)な「カルフォルニア・ドリーミング」とは系統、出自が違うわけです。さいとうたかをの劇画には戦争とか国家といったリアリズムが常に背景にある。
生まれとか育ちとか大事ですな。人間はどうしても環境に影響される生き物ですから。