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‘雑感’ カテゴリーのアーカイブ

なにわ大賞記念式典「モダンシティふたたび」

2008 年 3 月 28 日 Comments off

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なにわ名物開発研究会が主催する年に一度の大アワード「なにわ大賞」の記念式典「モダンシティふたたび」に招待されて参加しました。
http://www.naniwa-meibutsu.com/prize.html
http://www.naniwa-meibutsu.com/

なにわ大賞というのは大阪の芸能、文化にたいして、おもろい活動をやってる「いちびりな人」を、みんなで表彰しよやないか・・・というじつにユニークな有志団体です。選考委員には直木賞作家の難波利三先生、関西外国語大学教授の森一貫先生、元大阪市立大学教授の橋爪紳也先生、実行委員会には講談師の旭堂南陵師匠など錚々たるメンバーによって運営されていて、極めて「マジメ」なアワードでもあります。

「いちびり」というのはもちろん大阪の言葉ですが「市をふる」というのが語源とか。むかしは市場を仕切る人のことを「市ふり」といったそうで「市をふる」→「市ふり」→「いちびり」となったわけです。リーダーシップを取る、目立ってる、威勢の良い、よくやってる・・・というようなニュアンスが込められてる大阪弁といえます。

今年度で記念すべき10周年を迎えるそうで過去、総勢100名以上の方が受賞。火縄銃の保存会、万博グッズのコレクター、世界唯一のつまようじ資料館、平均年齢56歳のチアガールチーム・・・などなど、じつにバラエティ豊かで、「いちびった方」が勢ぞろいです。中には、あの「くいだおれ太郎」なんかも受賞してます(笑)
http://www.cui-daore.co.jp/top.html

大阪の最大の資源は「ひと」です。ヒューマンウェア。これだけはどこの都市にも負けません。


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堺名物! 堺港(堺旧港) コミュニティ・カフェ 「パンゲア」

2008 年 3 月 26 日 Comments off

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堺のコミュニティ・カフェ「パンゲア」にて。夕陽と堺港です。
http://www.pangea-sein.com/index.html

パンゲアは、ぼくのお気に入りのお店です。自宅(仕事場)からバイクに乗って、15分ぐらい。ここにくると大阪・堺は港町なんだなぁと強く認識します。

ちなみにオススメメニューは「タコライス」です。タコは入ってませんよ(笑)


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お初天神 梅の花

2008 年 2 月 26 日 Comments off

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お初天神にて。もう梅の花のつぼみが咲き始めていました。

ぼくは桜より梅が好きです。「ぱっと咲いて、満開のさかりに、ぱっと散る」という「桜の美学」は、よく武士道精神の発露と讃えられますが、ぼくは「最後の最後まで諦めずに枝に留まって老いさらばえて、あるべき一生を見事に終えてから、ようやく落ちる」という「梅の美学」が好きです。それはけっして無様でも無粋ではなくて、花として誠実であり、立派であるとぼくは思っています。

その性質から桜は東京の花という気がします。大阪は桜よりも梅が似合います。管公(菅原道真公)が「東風吹かば匂いおこせよ」と愛したのは梅の花でした。王仁博士が歌った「なにわ津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」の花も、桜ではなくて梅のことです。梅は鑑賞できて匂いもよくて、あまつさえ食べられます。風流で経済的。じつに大阪人好みやないですか(笑)

大阪は梅の国です。大阪人は、梅の花のようにあらねばならないと思いますよ。梅の花のように美しく。強く。誠実に。立派に。


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AllAbout「大阪」サイトオープンのお知らせ

2008 年 1 月 30 日 Comments off

関係者様各位

平素は格別のご厚誼にあずかり、厚く御礼申し上げます。
AllAbout「家族で楽しむイベント(関西)」
http://allabout.co.jp/gs/eventkansai/
オフィシャルガイドの陸奥賢です。

さて、生活総合情報サイトAllAboutは、約500に細分化されたテーマごとに、ガイド(専門家、評論家、ライター)が情報提供するメディアとして、住宅、グルメ、健康、金融、旅行などさまざまな分野のガイドサイトを取り揃えておりますが、このたび大阪の情報を一元的にまとめた「All About 大阪」がオープンいたしました。
http://allabout.co.jp/gs/travelosaka/

大阪のグルメ、レジャー、イベント、観光情報などを発信、提供する大阪専門ポータルサイトで、大阪在住のガイドが現地取材をモットーにして、ユーザー(読者)視点で、情報を編集し、記事としてお届けしてまいります。

また既存の「家族で楽しむイベント(関西)」サイトは2008年3月をもって休止とさせていただきますが、代わって「大阪」サイトの新設によって、より「大阪」に特化した情報提供を行います。ユーザー(読者)の積極的なサイト利用と共に大阪レジャー観光を促すことで、大阪経済の振興、地域活性化に繋がるように奮励努力していく所存です。

ここに謹んでご挨拶申し上げますとともに、関係者様各位には、イベント案内、プレスリリース配信等の情報提供をお願いして、ご鞭撻を賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。 

AllAbout「大阪」ガイド
http://allabout.co.jp/gs/travelosaka/
陸奥 賢


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大江戸の火消し(Smoke on the Water:木遣りヴァージョン)

2008 年 1 月 22 日 Comments off

大江戸の火消し(Smoke on the Water:木遣りヴァージョン) 


浄瑠璃、常磐津節によるスモーク・オン・ザ・ウォーターです。

浄瑠璃は中世の傀儡師から発展したもので、傀儡師は神に仕える存在でした。彼らは八百万の神々の言葉を「ことほぐ(言祝ぐ)」ことが求められました。だから浄瑠璃は今でも「語り」といいます。決して「歌う」とはいいません。

それで、この映像を見ていて、少し異様に感じられるのが、どの語りも一様に「無表情」であること。語りだけでなくて、三味も鼓も、みな無表情なので、一種、独特の迫力があります。これは日本の古典芸能の演者たちが、神と音楽は一体であると考えたことに起因します。つまり演者は、ただ、神の言葉を伝える役割(形代=かたしろ)に過ぎないので、そこに演者のヒューマニティ(人間性、感情)というのは求められなかったわけです。演者に求められるのは、ただひたすら「無私」の境地なんですな。

ここで注意してほしいのは「無私」であることは、しかし、決してヒューマニティの否定ではないということ。むしろ、完全なる、あらゆる感情を表現しようとすると、演者は無表情にならざるを得ないということです。人間の持つ感情、喜怒哀楽すべてを表現しようとすると、それは無表情でしかありえない。プラス(陽、正)の感情、マイナス(陰、負)の感情を全部足すとゼロになるのと同じ理屈です。

そういう全的なヒューマニティを表現するものとして、能楽には「中間表情」の能面があります。泣いているのでもない、笑っているのでもない、口を半開きにした、なんともいえない表情の能面です。これは舞台に出ると光線の加減で影になったり、光になったりして、様々な感情表現を可能にします。人間の全的な感情をいっせいに込めると、どうも人間というのは、こうした「中間表情=能面のような顔」になるようです。

西洋美術でいえばダ・ヴィンチの『モナリザ』。その謎の微笑みは、じつは「中間表情」に該当するものです。またピカソなんかは「泣いている横顔」と「笑っている正面」の顔を同時に描きましたが、これもモデルの全的なヒューマニティをなんとか表現しようとして悪戦苦闘してたどり着いた方法論なんでしょう。

ダ・ヴィンチやピカソといった超一流の西洋美術が到達した深奥な芸術表現が、日本の古典芸術の中には、既に当たり前のようにあるということ。それが、いまだに消えずに継承されていることは、我々の矜持です。

【大江戸の火消し(Smoke on the Water)】

俺たちゃ琵琶湖に行った 弁財天詣でさ
夜詰めの当番済まして 湯治も兼ねて
たまには上美女揃えて 杯重ねて
木遣りの声にも磨きを あてて帰ろうか

大江戸の火消し 空もはればれ
大江戸の火消し

琵琶湖じゃ畔の小屋で 芝居をやっていた
ちょいと覗いて行こうか 急ぎの旅でなし
江戸からの旅役者が はるばる来ていた
はだか火使って火が出て 俺たちの出番さ

火事場にゃ火消し 空には火の粉だ
火事場にゃ火消し


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「堺文化の広がりと祭り」シンポジウム

2008 年 1 月 19 日 Comments off

堺で祭りについてのシンポジウムをやります。僭越ながらぼくが講師として出ます。もしよろしければご参加ください。
http://www.sakai-nan-ya.net/2007/04.pdf

▼ディスカッション「時代の流れとこれからの祭り」
現在の地域社会の課題、これからの地域活性化・地域コミュニティの維持・発展において、「祭り」がどのような役割を担うべきか、活かしていくべきかを考える。

■日時:2008年1月20日(日)11時30分~15時(11:00受付)
○11時30分~13時00分:セミナー
講師:三上尚嘉氏(開口神社宮司)
    陸奥賢氏(AllAbout「大阪」ガイド、フリーライター・カメラマン)
    西田幸次郎氏(堺「まち・話そうよ会」会長)

○13時00分~15時00分:座談会(軽食付き)
総括:角山榮先生(和歌山大学名誉教授、堺なんや衆顧問)

■会場:カフェレストラン「スコーレ」
住所:大阪府堺市田出井町 2-1 サンスクエア堺内
TEL:0722-29-0373 FAX:0722-29-0373
JR阪和線堺市駅西出口徒歩 5分

※サンスクエア堺
http://www.sck.or.jp/sc/SSindex.htm

※カフェレストラン「スコーレ」
http://r.gnavi.co.jp/c445000/

■参加費:一般3000円(会員2500円)  セミナーのみ参加 1000円

■申込み、お問合せ先
氏名、住所、電話番号・FAX番号、メールアドレス等ご連絡先をご記入の上 はがき・FAX、またはメールにてお申し込みくだい。HPからも申し込みが可能です。
http://www.sakai-nan-ya.net

市民活動団体「堺なんや衆」
〒591-8032 堺市北区百舌鳥梅町3-39-27
FAX:072-257-1934
info@sakai-nan-ya.net
http://www.sakai-nan-ya.net


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初詣・金岡神社

2008 年 1 月 3 日 Comments off

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初詣で金岡神社にいってきました。ぼくが住んでいる堺・新金岡地区の氏神さまです。
http://www.kanaokajinjya.com/1p.html

金岡神社は平安時代初期の仁和年間(885年頃)に住吉大神をお祀りして創建されたそうです。その後、 一条天皇の御代(986年頃)に勅命によって画聖・巨勢金岡卿を合祀し、金岡神社と称するようになりました。境内地は「日本最古の国道」といわれる竹ノ内街道に面しています。

金岡卿は大和絵の大家として有名で、芥川龍之介の「地獄変」などにも名前が出てきますが、平安京の禁苑(皇族のみが入れる庭園)「神泉苑」のプロデューサーなんかもやってまして、金岡卿のプロデュース時代(868~872年)に神泉苑で始まったのが、「祇園御霊会」(869年)…現在の日本三大祭「祇園祭」です。要するに金岡卿は「祇園祭の仕掛け人」といえるかも知れません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E9%87%91%E5%B2%A1
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/schedule/02.html

「なんで堺に絵の神様の神社が?」と思いますが、ヒントは「竹内街道」にあります。金岡神社は竹内街道の通り道にありますが、この竹内街道は別名「丹比道」(たんぴみち)と呼ばれていました。「丹比」というのは、水銀とか鉛とかの鉱山資源のことで、「丹波」「丹後」「丹羽」「丹生」など日本全国に「丹」という字がつく地名は多いのですが、これらはその地域に鉱山資源があったか、または鉱山資源を発掘する一族が住んでいたのでは?と推察できます。それで竹内街道は堺から奈良・二上山へのルートとなっていて、この二上山というのが、1400万年前までは火山でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E5%B1%B1_%28%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%83%BB%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%29

火山の噴火は恐ろしいものですが、地中深くにあって到底、発掘できないような鉱物資源が、マグマとともに地上に噴出してきます。鉛、銅、銀、鉄、金などの宝庫で、死火山になれば、文字通り「お宝の山」となるわけです。港町・堺から奈良・二上山のルートを「丹比道」といったのは、そうした鉱山資源の運搬ルートであったからと考えられます。丹比道は「鉄の道」といってもいいわけで、実際に古代の堺には鉱山資源の加工に長けた「河内鋳物師」(かわちいもじ)という技術者集団がいて、奈良・東大寺の大仏鋳造などにも貢献しました。堺が中世に鉄砲産業の一大生産地になって、また江戸時代からは包丁産業、近代には自転車産業が盛んになるのも、こうした鉱山資源の街道ルートと、卓越した工人集団が生息していたことが大いに関係しています。古代の金属加工の技と伝統が、時代によって変遷しながらも、現代にまで脈々と生きているわけです。

それで「丹」という漢字を三省堂提供「大辞林 第二版」で調べるとこう書かれています。

(1)硫黄と水銀との化合した赤土。また、その色。辰砂。 (2)鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて作ったもの。鉛の酸化物。黄色をおびた赤色で絵の具や薬用とする。鉛丹(えんたん)。 (3)薬のこと。特に不老不死の薬。「―を煉り、真を修し/読本・弓張月(続)」  (4)(1)(2)のような黄赤色。

ここで注目して欲しいのが(2)の「鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて作ったもの。鉛の酸化物。黄色をおびた赤色で絵の具や薬用とする。鉛丹(えんたん)。」という部分。じつは丹というのは鉱物ですが「絵の具(鉛丹)」にもなるんですな。丹比道は丹(絵の具)が行き来する道で、そこに絵描きを生業とする一族が出てきたとしても何ら不思議ではありません。俗に「河内絵師」と呼ばれているのですが、そうした絵描き一族の中から生まれた天才が巨勢金岡卿であったというわけです。

ちなみに堺には「鉛市」という会社があって、会社沿革によると創業は応永2年(1395年)で、600年以上もの歴史を有する老舗企業だそうです。泉州・堺の鉛屋市兵衛という人が、明の人から「鉛丹」の製法を学んだことが始まりやそうで、日本で始めて「鉛丹」を製造、販売した会社で、江戸幕府にも専売を許可されたとか。
http://www.namariichi.co.jp/
http://www.namariichi.co.jp/company/history.html

また「鉛丹」は「朱色(赤色)」ですが、用途としては陶磁器の釉薬、漢方薬などに用いられていましたが、とくに朱色は「魔よけ」の色として神社仏閣に多く用いられました。現在でも世界遺産の厳島神社(広島県)、下鴨神社(京都市)などは、堺の鉛市が指定業者になっています。厳島神社や下鴨神社にいったさいは「堺の鉛市の鉛丹を使っているのか…」とマニアックに鑑賞して楽しんでください。
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/index.html
http://www.shimogamo-jinja.or.jp/home/

たかが絵の具なんですけども、色んな歴史やドラマが含まれています。絵の具なだけに「塗り込められている」といったほうがいいかな…って落語のサゲみたいになりました(笑) おそまつ。

【参考画像1】
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「日本元祖 丹製造所」と書かれた鉛市のチラシ。幕末・明治のものです。

【参考画像2】
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「住吉・堺豪商案内記」より。鉛市では「丹白」も製造、販売しておりました。要するに「白粉(おしろい)」です。堺は港町で乳守、栄橋、龍神といった色街も古くからありましたから。白粉などもようさん売れたみたいです。

※上記の画像はこちらから引用しました。
引札と『住吉・堺豪商案内記』


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千年、働いてきました

2007 年 12 月 28 日 Comments off

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http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047100765/

「世界最古の企業」ってどこにあるか知ってますか?答えをいいますと大阪にあります。聖徳太子が建立した日本最初の官寺・四天王寺を施工した「金剛組」(大阪市天王寺区)。これが世界最古の企業で、創業はなんと「578年」やそうです。1578年やないですよ。578年。日本の年号でいうと「敏達天皇6年」。「千年、働いてきました」は、金剛組のような日本の老舗企業の取材記事をまとめた本なのですが、金剛組は1000年どころか、よくよく考えると「1500年ぐらい働いてる」わけで、どれだけ古いねん?って話ですな。
http://www.kongogumi.co.jp/index.html

この本によると日本には創業200年を越える会社が3100社ほど存在するそうで、全世界の老舗企業の約40%を占めてるそうです。ちなみに欧州ではイタリア・フィレンツェの金細工メーカー「エトリーニ社」が創業1369年で最古。アジアでは中国の漢方薬製薬会社の「北京同仁堂」が創業1669年やそうで、大阪の金剛組には到底といいますか、はるかに及びません。

要するに日本は「企業体」ってのが長く続くお国柄なんですな。理由としては色々とあります。島国で、基本的に戦争が少ない国であったこと。「ものづくり」を非常に尊重する民族であったこと。「ものには命が宿る」とする「アニミズム」の信仰が浸透していること。「もの」を生み出す「職人」(職人文化)が、大切にされてきたこと。「同族経営」(団結心が強い。互いを支えあう構造にある)でありながら「他の血族」(新しい技術や優れた文化)を易々と受け入れる傾向にあること…などです。ひとつひとつの詳細な事例を挙げていくと大変ですし、詳しくは本に書いてますので、まぁ、みなさん、読んでみてください。

師走で慌ただしいのですが、こういうときこそスケールの大きい本を読むに限ります。


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挑戦する中小企業 in OSAKA

2007 年 12 月 23 日 Comments off

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面白い本を教えてもらいました。「挑戦する中小企業 in OSAKA」

日本全国には約27万社の中小企業が存在するそうですが、そのうち約2万4000社が大阪に存在します。これは東京(2万1000社)や愛知県(2万2000社)よりも多く、都道府県の面積と事業所の数を比較すると、東京都の約1.3倍、愛知県の約3倍にもなるとか。大阪は日本最大の「中小企業の町」なんですな。また中小企業といえども日本国内トップはおろか、世界トップシェアの「オンリーワン企業」も決して少なくありません。
http://www.pref.osaka.jp/kogyo/mono/mono001.html
http://www.pref.osaka.jp/aid/naniwa/naniwa2003/n2003_3_5.pdf

大阪の中小企業が支える、ものづくり文化は日本経済再生のキーワード。この本、よーさん売れて欲しいです。
http://cart05.lolipop.jp/LA06686589/?mode=ITEM2&p_id=PR00101425489


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大坂堂島米会所物語

2007 年 12 月 19 日 Comments off

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島実蔵氏著。時事通信社。

「堂島米会所」て、ご存知ですか?世界初の公設先物取引市場。
http://www.ose.or.jp/profile/pr_reze.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E4%BC%9A%E6%89%80

じつは「Dojima Rice Exchange」は国際的に有名で、実際に米国版wikipediaで「dojima」と検索すると「the forerunners to a modern banking system」(現代的な銀行システムの先駆け)と記述されて登場します。世界最大の先物取引市場のシカゴ・ボード・オブ・トレード(CBOT)の見学ツアーに行くと「この取引所のルーツは日本の先物取引所であり大坂が発祥の地です。私たちは世界で最初に整備された日本の市場を参考に開設されました」というガイドの音声テープが流されるそうで、玄関ホールにも堂島米会所を顕彰する銅版があるとか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dojima
http://en.wikipedia.org/wiki/Chicago_Board_of_Trade_Building

江戸時代の日本全国の米相場は大坂商人が決定していました。前田藩・金沢100万石とか伊達藩・仙台62万石とかいいますが、この石とは米のことです。米は大名や地域の生産力、経済力の指標でしたが、その相場は、幕府ではなくて大坂・船場商人が握っていました。どうやって握ったか?というと堂島米会所の先物取引で米の収穫前に、米を「証券」で買いつけたり、売ったりしたんですな。

米は不作もあれば豊作もあって価格は常に不定です。それを船場商人が予測して、新潟からなんぼ買いつけて、土佐になんぼで売りつけてと、すべて収穫前にやりくりしていたわけです。よく大坂のことを「天下の台所」といいますが、なぜ大坂に米が集められたか?というと、先物証券で米を「買った!」「売った!」していたから日本全国から大坂に米が集まってきたわけです。

堂島米会所には2つの米市場があって、1つは「正米取引所」といって、実際に米を取引する市場で、もう1つは「帳合米取引所」といって「帳簿の米(まだ収穫前で帳簿の上でしか存在しない米)を合わす取引所」・・・つまり先物取引の市場でした。幕府は正米取引所には参加してたんですが、帳合米取引所には決して参加しようとしませんでした。「帳簿の米なんて得体の知れないもので取引なんかできるか!」とバカにしてたんですな。経済オンチといいますか、これが幕府の限界でした。

じつは江戸中期から幕府財政はガタガタになります。江戸初期には考えられなかったことですが、幕府や全国各地の大名が新田開発に取り組んだ結果、日本全国の米の生産量が日本全体の総消費量を上回り、時には「米余り」「米のインフレ状態」になったわけです。こうなると「米の価格」は下落する一方で、米に依存する経済機構の幕府や大名は一生懸命に米を増産するんですが、どれだけ米を生産しても米の価格が安くなって儲からない。

そこで必要なのが先物取引で、じつは先物取引には米の生産量を調整する役割もあります。先物は例えば「1年後に私は米を100石買いますよ」というような取引形態です。「買いの注文」が殺到すれば需要が増えるから米の価格は上がります。しかし逆に「1年後に私は米を100石売りますよ」と「売りの注文」が殺到すれば供給が増えて米の価格は下がります。こうやって先物売買を済ませていると、収穫前なのに「1年後の米の価格」がおぼろげながら見えてきます。「1年後の米の価格が判る」となると、「米が高く売れる」となれば精を出して米を生産しようとするし「米の値段が安くて売っても儲からない」となると米の生産よりも何か違う特産品に精を出そうとします。「米あまり」「米インフレ」の状態を解消するには先物取引の調整システムが必要不可欠やったんですな。

実際に大坂・船場商人は「旗降り通信」「のろし」などで情報網を張り巡らせて、米の相場はもとより生産地の「晴れ」「雨」「災害」「事件」などを刻一に記録しておりました。米の豊作や凶作を予測していたわけで、日本全国各地に「旗振山」「旗山」「相場山」「相場振山」という妙な名前の山が数多くあるんですが、これらは大坂・船場商人の旗振り通信の拠点だったところです。

0 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=223

対して当時の幕府の情報伝達方法は飛脚でした。お役所仕事ですから書状にしてサインとかハンコがないと有効ではないんですな。「忠臣蔵」では浅野野長矩が吉良上野介を斬りつけた「江戸城松の廊下の事件」を伝えるために江戸から赤穂まで620キロをわざわざ飛脚が走ってます。「4日間でたどり着いた」といわれてますからこれまたスゴイ体力ですが、旗振り通信なら2時間あればニュースが届けられたといいます。相場の世界は一分一秒を争いますから飛脚では情報が遅すぎて役に立ちません。

大坂・船場商人は「堂島米市場」や「旗振り通信」といった幕府には到底思いつかない独創的アイデアで、日本の流通経済を牛耳ったわけです。先人というのは偉大といいますか、大坂・船場商人の知恵には驚かされますな。

次はこれを読もうと思います。
http://book.jiji.com/books/publish/p/v/249


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