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2011 年 7 月 30 日 のアーカイブ

この土(くに)のかたち

2011 年 7 月 30 日 Comments off

大阪が産んだ知の巨人の系譜。小松左京(1931)より一世代ほど前なのが司馬遼太郎(1923)。

司馬さんはエッセイで「この国のかたち」を書きましたが、これ、もともとは「この土(くに)のかたち」だったとか。「土」と書いて「くに」と読ませる。それは少々、ムリがあるのでは?という編集長の意見で没ったんですな。

これ、しかし、ぼくは編集の大失敗だったと思ってます。「土」と「国」ではまったく意味が変わってきますから。「この土のかたち」から「この国のかたち」となってから、明らかに司馬さんのエッセイは失速して、狭量な、凡百の日本論に堕してしまいました。

司馬さんはほんとは「NationではなくStateでもない。Landとしての日本を描きたい」といっていたんです。「国」ではない。「土」の大切さ。われわれ人間は、生命の本然として、「土」を離れては一瞬たりとも、生きていけない。それを司馬さんは警鐘しようとした。

ところが本を売らんがためのタイトル変更に、編集の商業主義に、負けてしまった。こういうとこが司馬さんのアカンとこです。だからでこそ司馬さんは国民的大作家と呼ばれるほど売れたともいえますが…歯がゆい。

実際に司馬さんの警鐘は現実のリスクと化しました。「国」の方針で、放射能で、われわれの命そのものの、「土」を汚してしまった。それは、絶対に、やってはいけないことなんです。百代の過失。後世に言い訳が立たないことをしてしまった。

なんでこんなことになってしまったのか?それは、われわれが「土」を蔑ろにしてきたからです。「国」ではなく、「土」を語らねばならない。国家ではなく、風土を。われわれのアイデンティティは、どこにあるのか?それをロストした民族に、未来はないです。


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竜馬がゆく

2011 年 7 月 30 日 Comments off

http://www.tosainari.jp/

土佐稲荷神社は元土佐藩邸跡。坂本龍馬もやってきましたし、龍馬没後は岩崎弥太郎が海援隊、九十九商会を引き継ぎ、ここで三菱を起業しました。また、この横にある西長堀アパートに住んだのが司馬遼太郎で、ここで司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の連載をスタートさせました。

ある土佐出身の友人に「司馬さん、坂本龍馬を書いてくださいよ」と薦められて、あまり気乗りしなかったようですが、それから幕末関連の史料を読むと、どこにでも龍馬の名前が出てくる。なんだこの人物は?というので気になって本格的に調査したのが「竜馬がゆく」執筆のキッカケとか。

あと「龍馬がゆく」ではなく「竜馬がゆく」であることに注意。この小説はあくまでも「フィクション」。史実と虚構を巧みに織り交ぜている。これ、近松がいうところの「虚実皮膜論」そのもの。まさしく司馬文学は近松の系譜に連なる、大阪文学の本流です。


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織田作之助『大阪の可能性』

2011 年 7 月 30 日 Comments off

「大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って、横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬ」

織田作之助『大阪の可能性』


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