■2015/03/11 東日本大震災から4年目を迎えて
2011年3月11日は、ぼくは大阪商工会議所で記者会見をしていました。「大阪あそ歩’2011春」と、ついに完成した『大阪あそ歩まち歩きマップ集1~3』の発表やったんですな。2年半ほどかけて文字通り全身全霊、魂を込めてやってきた仕事がついに完成した日。
大阪あそ歩は、やっぱりぼくの人生の中でもひとつの金字塔で。我ながらようやったなと今でも思ってますし、100年後に『まわしよみ新聞のすゝめ』はなくなっていても『大阪あそ歩まち歩きマップ集』は貴重な大阪の郷土資料として残るやろうと思ってます。「平成の浪速百景」を作りたいとぼくは思ったし、『大阪あそ歩まち歩きマップ集』はその役割を果たしてくれると信じてます。
ある意味、ぼくの人生の最も輝かしいハイライトの瞬間に起こったのが東日本大震災で。自分の仕事がついに完成したと思ったら、そんな仕事なんか吹き飛ぶような歴史的な天災・人災が起こってしまった。
当時のぼくは大阪市の観光プロデューサーとして、あらゆる大阪のまちを歩きまくって、まちのことなら大抵のことはわかるという自負もありましたが、そんなぼくでも「津波で一瞬のうちに飲み込まれ、消えてなくなったまち」が誕生するというのは、ちょっと想定だにしていなかった。ましてや放射能汚染によって「まちはそのまま残っているが、ひとがひとりもいないまち」なんてのが出てきたときは、ほんまに茫然としました。日本の歴史上、そんなまちは、かつて、一度もなかったんですな。まるで怪談やホラーみたいなことが現実に起こってしまった。「なぜ、そんなまちができてしまったのか?」・・・まち歩きをずっとやってきた人間として、こうした「まち」の現出は深く深く考えさせられました。
その結果、ぼくの中で生まれてきたプロジェクトが「大阪七墓巡り復活プロジェクト」。原発稼働、原発誘致というのは結局のところ、生きている人たちの経済的理由なんですな。しかし、「まち」というのは過去の死者から受け継がれ、将来やってくる未来者に手渡していくものであって、現在、生きている人たちだけで勝手に専横していいものではない・・・という思いから、このプロジェクトは動いてます。つまり、過去の祭礼(大阪七墓巡り)を掘り起こして、復活させて、未来者に伝えていく大阪七墓巡り復活プロジェクトをやっていれば、「まちは一体、だれのものか?」ということを、自然と教えてくれるやろうと。そのぼくの考え、想いが伝わっているかどうかはわかりませんが、大阪七墓巡り復活プロジェクト自身は、どんどんと認知は広がっていってます。そのうち、ぼく以外の巡礼者が出てくることを大いに期待してます。
また東日本大震災の情報、報道、マスメディアの在り方について疑問を持って、一体、なにを信じていいのかわからん・・・となった時に思いついたのが「まわしよみ新聞」だったりします。ぼくひとりでは、この世界の複雑怪奇さは到底、処理できない。しかし専門家ってのも信用できない(日本の最高学府・東大の教授が「プルトニウムを飲んでも大丈夫」なんていって原発を推進してきたわけですから・・・)。そこで老若男女、多様な人が集まって情報を読み解きあう、「集合知」が発動する場(コモンズ)を作ればええんやないか?と思ったわけですな。このプロジェクトは、あっというまに日本全国各地に広がり、ぼくの想像以上のムーブメントとなり、現在にいたってます。
要するに「大阪七墓巡り復活プロジェクト」も「まわしよみ新聞」も、東日本大震災が生んだということです。この未曾有の天災・人災がなければ、ぼくは決してプロジェクトをやっていなかった。
311によって無くなってしまったものはいっぱいありますが、それによって世に産まれ出てきたものも多いんやないか?とぼくは思ってます。それはまだまだ幼く、小さく、力を持たないかも知れないけど、これからの社会をよりよいものにする可能性を秘めている。それらを大事にしたい。大切に育てていきたい。311を体感した、すべての人間には、その社会的使命があると思ってます。
祈りをこめて。合掌。