『ふるさとは語ることなし 安吾』
『ふるさとは語ることなし 安吾』
まさか、まわしよみ新聞で安吾のふるさと・新潟に来ることになるとは思いませんでしたな。
安吾はしかし新潟新聞社長の坂口仁一郎の五男。安吾の兄の献吉(仁一郎の長男)は新潟日報社の社長でもあります。新聞人の一族なんですな。ちょっと忘れてました。
安吾にはハマりましたな。ハマったというか狂ったという方が近いですな。いまも狂ってますがw 人生、変わりました。まぢで。
「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。」
『文学のふるさと』
「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しやうとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャ/\であれ、何から何まで肯定しやうとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言つてやんでいを肯定し、と言つたやうなもんだよを肯定し――つまり全的に人間存在を肯定しやうとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を、永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。哀れ、その姿は、ラ・マンチャのドン・キホーテ先生の如く、頭から足の先まで Ridicule に終つてしまふとは言ふものの。それはファルスの罪ではなく人間様の罪であらう、と、ファルスは決して責任を持たない。」
『FARCEに就て』
ふるさとがそうであるように、安吾は語るもんやない。論じるもんやない。読むと、生き方が安吾になる。安吾化してしまう。それが安吾の凄さ。怖さ。猛毒であり、劇薬。