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2013 年 7 月 23 日 のアーカイブ

應典院発行『サリュ・スピリチュアルvol.7』寄稿 【宗教と観光の交差点 弱者へのコンパッション】全文

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應典院発行『サリュ・スピリチュアルvol.7』寄稿全文。
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【宗教と観光の交差点 弱者へのコンパッション】
■大阪七墓巡りとは・・・
かつて大阪には「七墓巡り」という不思議な祭礼があった。成立した年代はよくわかっていないが近松門左衛門が『賀古教信七墓廻』という浄瑠璃作品(『外題年鑑』によると「元禄十五年七月十五日上演」とある)を書いていることから元禄年間(1688~1704)にはすでに成立していて、当時の大阪の町衆のあいだでも一般的に認知されていたものと思われる。実施する時期は盂蘭盆会の頃といい、『賀古教信七墓廻』が旧暦7月15日に初演されているのも、そうした祭礼の時期を意識してのことだろう。また、この初演のさいには地獄や賽の河原の情景などを人形で見せる趣向などもあったらしい。

教信(786~866)は『今昔物語』(巻十三 播磨國賀古澤教信往生語)や慶慈保胤(931?~1002)の『日本往生極楽記』などにも記されている伝説的人物で、若き頃は奈良・興福寺の学僧であったが発心して世俗に身を投じ、市井の人でありながら播磨国賀古で周囲から「阿弥陀丸」と呼ばれるほど念仏を唱え続け、最後は貧窮の中に死んだという。ところが近松の『賀古教信七墓廻』では教信は親の敵と兄嫁が死亡したことに世の無常を感じて法師となる…というストーリーで、まったく史実とは異なり、ただ古人の名前を借りただけの近松のオリジナル作品となっている。ただ、ここで興味深いのは教信が、親の敵や兄嫁とはまったく縁もゆかりもない大阪市中の七墓を巡ることで両者の菩提を弔おうとしたという部分で、当時の大阪の町衆が大阪七墓巡りを行った意味・意図の一端が伺える。

七墓の所在地についてもいろいろと不明確な部分が多い。『賀古教信七墓廻』の第四段「夏野のまよひ子」の中では「あだし煙の梅田の火屋」「短か夜を誰が慣わしの長柄川」「道のなき野原笹原葭原の」「泣き泣き歩む夏草の蒲生」「それとも知らで別れ行末は小橋の」「寺の鐘の聲高津墓所に夕立の」「煙知るべに千日の」「これぞ三途と一足に飛田の」などと、近松得意の掛詞で調子よく七墓が登場するが「梅田」「長柄」「葭原」「蒲生」「小橋」「高津」「千日」「飛田」と七墓巡りであるのに「八カ所の墓地」が紹介されている。また大正15年(1926)発行の『今宮町誌』(編纂:大阪府西成郡今宮町残務所)の「木津の墓」の項目を参照すると「木津の墓は古来大阪の七墓、即ち千日前、梅田、福島、天王寺、鵄田、東成郡榎並と同じく七墓の一に加へられた場所」とあり、ここでは「木津」「福島」「天王寺」「榎並」なども七墓として数えられていたと記している。

さらに昭和10年(1935)発行の『郷土研究 上方』(編者:南木芳太郎)の「上方探墓號」を調べてみると「今は途絶えたが、貞享、元禄の昔より明治初期に至るまで久しい間、大阪では盂蘭盆になると心ある人々は七墓巡りと称して、諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向したものである。その場所は時代によって多少の変遷があり、又振出の都合にて手近の墓所のみを巡った形跡もある。その場所を挙げると、北よりすれば梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、高津、千日、飛田辺りが古い時代のもので、明治になると長柄、岩崎、安部野辺りが加わっている、その他安治川、大仁、野江等の三昧も七墓巡りの中に入れねば成るまい。もっと小さな墓所も場末にはあったであろう」と記されていて「南浜」「岩崎」「安部野」「安治川」「大仁」「野江」なども七墓として巡っていた墓所として列挙されている。この三書に記述されている墓所を加算するだけでもすでに「十八墓」を超えるが、文献を渉漁すればその数はさらに増えていくだろう。要するに盂蘭盆会の頃に大阪市中にあった墓を7カ所以上巡れば「大阪七墓巡り」として成就したのでは?と筆者は推測しているが、これは有縁者(家族、親戚)の墓を参るだけの近代の盂蘭盆会とは、だいぶ異なった様相であったことが感じとれる。

■無縁性と都市
こうした有縁仏・無縁仏といった枠組みを超えた供養の祭礼が、江戸時代の大阪で成立しえたことは非常に興味深いことであるが、これはおそらく都市という「場」(トポス)の性格が大きい。例えば村落の祭礼は、基本的には先祖代々の土地に生きる人々の中で育まれる。有縁の村落社会の繋がりを再確認する仕組みとして祭礼は機能するが、都市はそもそも無縁者の集まりによって生まれてくる。戦後の日本社会でも長男長女は家や田圃を受け継ぐが、受け継ぐ家や田圃がない=村落では食べていけないという次男三女四男五女は夜行列車に乗って東京や大阪、名古屋といった都市に集団就職して高度経済成長の担い手になっていった。そこでは「隣に誰が住んでいるかわからない」(犯罪者かも知れないが天才かも知れない)という社会状況が生まれるが、じつはこの無縁性こそが都市の都市たる基礎条件となる。そういう都市で自然発生する祭礼は、無縁ということにそれほど頓着しない。むしろ、みんな同じような無縁の存在であるからでこそ、お互いに供養しあおうという慈悲の発想が誕生するといえないだろうか?

大阪七墓巡りが発生した社会状況は、「隣に誰が住んでいるかわからない」という戦後日本の社会状況と非常にリンクしている。ご存じのように大阪は安土桃山時代には天下人・秀吉が「浪華のことは夢のまた夢」と謳ったほどの栄光を誇る豊臣武家政権の首都であったが、慶長の役(1615)によって、すべてが灰燼と化してしまう。当時の様子を伝える古文献によれば「大坂にこもりたる衆は、命ながらへたる衆は、ことごとく具足をぬぎ捨て、裸にて女子もにげちる」(大久保彦左衛門『三河物語』)、「多くの人は約10万人が死んだと言い、町の中で殺された人々のほか、合戦が行われた周辺も死体で埋まっていた。大坂の川(大川)は水が豊富で非常に深いだけに、敵の武器や火事を免れようとした多くの人々のために、かえって墓場と化した。川底は死体で埋もれ、向岸へ渡ろうとすれば、その上を歩かねばならないほどであった」(『切支丹研究第17集 耶蘇会史料』)とあり、つまり戦闘員だけではなく大阪城周辺にいた非戦闘員(町衆・女・子供)も惨殺されたことが記述されている。どこまで事実であるかはわからないが、当時の伝聞では約10万もの人々が殺されて(ちなみに太平洋戦争時の大阪大空襲の死者・不明者数は約1万5000人)、まさに大阪のまちは、どこを歩いても血で汚され、累々たる死者が眠る「ネクロポリス」(死者のまち)となってしまった。

こうして完全に焼野原、焦土と化した大阪を再建するために、新しく日本全国各地から集団就職のように町衆が集まってきたが、その構成員の多くは、長い戦乱によって主君や土地を失った武家出身者(豊臣方が多かっただろう)や関係者、御用商人、農民などで…つまり敗北者であり、流れ者であり、無縁者であったろう。実際に元禄期にあまりの財力に幕府が恐れを為して闕所払いされたという伝説的な大阪豪商の淀屋(信長に滅ぼされた岡本家の子孫)も、現在まで財閥として現存している住友家(秀吉に滅ぼされた柴田勝家家臣の子孫)や鴻池家(毛利氏に滅ぼされた山中鹿之助の子孫)も、元は武士の一族であった。こうした無数の無縁者たちの懸命の働きによって、元禄期に向けて大阪は商業流通都市「天下の台所」として劇的に再生していく。何もかも文字通り無に帰した慶長の役から、「浮世」と謳って浮かれ騒いだ元禄バブルという狂瀾の時代に至る、その成長のダイナミズムは、じつは戦後の高度経済成長を遥かに凌駕する規模とエネルギーであったのかも知れない。

■七墓はなぜ消滅したのか
しかしここで忘れてはならないことは、江戸幕府の「士農工商」という絶対封建社会の身分制度では、仮に商人=町衆が武士の刀に触れたりすれば問答無用で「切り捨て御免」をしても許されるという法律(『公事方御定書』71条)ができたほど、ほとんど最下級の人間として扱われていたという事実で、どれだけ富を蓄積しようとも、本質的には大阪とは歴史的敗北者、社会的弱者が集積する悪所であり、アジール(無縁所)の都市であった。そして敗北者、弱者の最たるものが誰にも供養されない死者=無縁仏(当然、この中には豊臣の死者が入る)であるので、自然とそこにシンパシー(同情)やエンパシー(共感)が生まれたであろうし、そういった意味でも無縁仏の供養として大阪七墓巡りという祭礼が起こったとしても何ら不思議ではないといえる。また七墓に数え上げられる野江墓地(ここには仕置き場・刑場もあった)などは豊臣の残党を処刑した場であると伝わるが、じつは七墓巡りには、こうした「豊臣方の遺恨」「非戦闘員の大量虐殺」といった「ネクロポリスの記憶」を密かに伝えていくという意味もあったのではないか?と推測している。

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ところが時代が経るにつれて、こうした記憶は薄れていったようで、前述した『郷土研究 上方』(編者 南木芳太郎)の「上方探墓號」の表紙に描かれた「大阪七墓巡り」を描いた錦絵(作者・三代目長谷川貞信)では、男女が笑顔で鐘や太鼓を叩きながら巡礼している光景が描かれていて、とても陽性で自由闊達な雰囲気が感じとれる。また幕末には市中に「七墓道」(南浜墓地近くの源光寺境内に現物がある)の石標が立てられるほど、数多くの町衆が七墓を練り歩いたと思われるが、明治維新以降は都市の近代化が進み、七墓そのものが市中郊外に移ったり、統廃合されたりして、いつのまにか大阪七墓巡りは自然消滅してしまったという。

ここでひとつ、非常に気になっているのが、元禄期から明治初期にかけてまで約170年間ものあいだ行われていたという「伝統」ある大阪七墓巡りが、なぜいま、これほど綺麗さっぱりと見事に、この地上から雲散霧消して何も伝わっていないのか?という疑問である。長年、同じような習俗や祭礼を繰り返しやっていれば、そのうち所作や決まり文句、踊り、歌、調子といったエトス(型)が生まれたりして、コミュニティとして継承されていくものだが、大阪七墓巡りでは、どの順番で七墓を巡り、どのようなスタイルで死者を供養していたのか?というのがまったく伝わっていない。これはしかし近松の時代からすでに「八墓」が記載されているように、創成期から墓地の場所も完全には特定できず、要するに大阪七墓巡りをやっていた個人や団体が、それぞれ「無手勝流」であり「無定型」であったからだろう。少し穿った言い方をすれば、大阪人気質の「なんでもよろしいがな!」という「いっちょかみ」(なんでも参加する)の「いちびり」(お調子者)精神で大阪七墓巡りを実施していたので、エトス化されるほどまで祭礼が深まらなかったのでは?と考えている。また、もし仮に大阪七墓巡りの中に「豊臣方の慰霊・供養」といったような隠された意味付けがあったとするならば、江戸時代の徳川政権下という抑圧の中では、そのような祭礼を執行することは難しく、だからでこそ「無手勝流」「無定型」といった非公式的な供養の方法論で、幕府の目を掻い潜ったのかも知れない。しかし、逆説的に考えると、往時の大阪人は無手勝流、無定型に大阪七墓巡りをやっても、それが「供養の祭礼」として成立しえたほど、深い宗教性を持ち、超自然的なもの(神仏や死者の霊)を敏感に感じ取る霊性に満ち溢れた民であった証明・証拠ではないか?と個人的には考えている。

■死生観光プロジェクト
さて、以上は大阪七墓巡りという祭礼の存在意義や成立背景、その消滅について極私的な考えを述べさせていただいたが、筆者は宗教や祭礼の専門家ではなく、普段は「コミュニティ(=まち・都市)ツーリズム」のプロデューサーとして活動している。金儲け主義、経済効率最優先の「マス(=大衆)ツーリズム」を否定して、まちの「ひと」(ガイド)との一期一会を楽しむ・・・要するに「まちの物語」(ナラティブ)を体感しようとして2008年より活動していたわけだが、次第に現在進行形の「生者のみの視点」でまちを語ることの不具合、不都合にも気付くことになった。その最大のきっかけが2011年3月11日の東北大震災で、まち歩きのプロデューサーとして普段から「まちとはなにか?」ということを考える日々であったが、津波で一瞬のうちに流されてしまい、「ひとはいるがまちがない」といった事態や、原発事故によって強制的に退去させられて「まちはあるがひとがいない」といった、まるで怪談のようなまちが発生したときに、改めて「まちとひと」との関係性について熟慮せざるを得なかった。とくに数千年後、数万年後にまで影響を及ぼすという途方もない放射能汚染は、我々が住んでいるまちを、現在進行形の、生きている者たちだけのトポス(場)として捉えてはいけないという警鐘のようにも感じられた。まちには我々が存在する以前に、そこに根差して生きてきた「まちの先人たち」がいて、さらに、その後には、いまだ生まれてはいないが、そのまちで生きていく「まちの後人たち」がいる。我々は、ただ、その両者のあいだに、つかのま存在しているだけのまちの仮の住人に過ぎない。それまでは観光というものは、「まちとひととの関係性(空間軸/横軸)」を体感するものと考えていたが、今後は、それだけではなく「まちとひとの連続性(時間軸/縦軸)」にも着目しないといけないだろう。つまり「死者と生者の交流・交感としての観光があるのではないか?」(これを筆者は「死生観光」と名付けた)という問いが芽生え、そして、そのひとつの答えとして「死生観光プロジェクトとして大阪七墓巡りを復活させよう」と決意した。まずfacebook上で公式ページを作成して2011年8月15日の夜に試験的に大阪七墓巡りの跡地を約6時間かけて訪ね歩くというまち歩きを企画・主催したところ、即座に様々な反響が寄せられ、30名近い人々が募ってきた。宣伝・告知はほぼfacebookのみであったので、20代~40代の参加者が多かったが、若いインターネット世代が大阪七墓巡りに多大な興味・関心を覚え、こぞって参加したというのは予想外の驚きであった。この成功を受けて2012年は公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団の後援と助成を受けながら、さらにプロジェクトを拡大し、まず七墓それぞれの歴史やドラマを語って体感するというトークイベントを計7回企画した。

またプロジェクトのハイライトの8月15日には、詩人や舞踊家、コリオグラファ―、ダンサー、劇作家、ミュージシャンといった7組のアーティストに協力を呼び掛け、七墓の跡地で供養のパフォーマンスを繰り広げ、それをまち歩きで繋いでいくという企画を実施した。ここでアーティストに供養のパフォーマンスをお願いしたのには、かつての大阪七墓巡りが「無手勝流」「無定型」で行われていたのでは?という部分に着目したことと、また仏教やキリスト教、イスラム教といった制度宗教がなかった太古の時代(自然宗教の時代)には、ひとが亡くなったさいは歌や踊りによって、その離別の悲しみや再会の願いなどを表現していたのに違いなく、アートには本来、ひとを供養するといった根源的な力があるはずで、そういったベクトルのアートを実現できないか?という思いから決行された。筆者の個人的な思いだが、いま日本全国各地のシャッター商店街、限界集落などでアート・イベントが繰り広げられているが、その多くではアートは経済活性化や集客効果という「まちおこし」のためのツールとして使われている。「かつての栄光よ再び」というコミュニティの切実な願いは判らないではないが、それは戦後日本社会の国是であった高度経済成長の幻想というもので、そこをまず捨て去る必要があるのではないか?朽ち果てていく、枯れ果てていくコミュニティへの供養…その時にこそアーティストの役割があり、つまり「まちしずめ」のアートが必要だろうという思いもあった。しかし「無縁の死者を供養する」「まちしずめ」といったようなことは、アーティストも普段、なかなか求められない難題で、7組のアーティストはとても真摯に、誠実に、このテーマに取り組んでくれたが、とても一朝一夕にできるようなことではなかったという反省の声も聞かれた。試みとしては面白いものだったと思っているが、総評としてはアートによる供養はかなり無謀な挑戦で、むしろ制度宗教の持つ「エトス」(型)の必要性、重要性に気付かされる結果となった。しかし、宗教者とアーティストのコラボレートによって新しい供養の形はあるのではないか?という可能性も感じていて、2013年度以降は、そうした供養の在り様を模索したいと考えている。いずれにせよ、8月15日は七墓を巡りながら各墓地ではアーティストの供養のパフォーマンスを鑑賞し、朝10時から夜24時まで約14時間にも及ぶ「死生観光」のまち歩きだったが、50名近い参加者が入れ代わり立ち代わり参加して大盛況のうちに終わることが出来た。今後もこのプロジェクトは実施していくし、やがて大阪のまちのひとたちに伝播し、自然発生的に大阪七墓巡りを行うようになるまで、都市祭礼として完全に定着、復活するまで継続していきたいと願っている。

■宗教と観光の視座
さて、筆者は観光の新しい可能性=「死生観光」のプロジェクトとして「大阪七墓巡り復活プロジェクト」を企画・主催しているが、宗教者側から観光をどう捉えるべきか?という講演があった。それが2012年10月13日に應典院にて実施された「ものがたり観光行動学会」の「宗教と観光」をテーマにした釈徹宗(僧侶・宗教学者・相愛大学教授)さんの基調講演「社会と宗教の位置関係……そして観光」である。釈さんは、そもそも日本仏教だけに限っても二十四輩、十八檀林、唱題目行脚といった宗教ツーリズムが数多くあり、これらは教団の維持やコミュニティの帰属意識を高めるものとして定期的に繰り返されてきたという。それらは平たく言えば「聖地」を巡礼するというもので、例えばキリスト教徒は、エルサレムにある「ヴィア・ドロローサ」(苦難の道)と呼ばれるキリストが十字架を背負って歩いた最期の道を涙しながら歩き、キリストが罵声を浴びせられながら転んだという場では同じように転んで地面に祈りやキスを捧げ、キリストの悲しみや痛み、辛さを追体験し、コンパッション(共苦)しようとする。つまりキリスト受難の地という場(トポス)が持っている物語(ナラティブ)に全身全霊を投じることで、キリストと自分の境がなくなるようなコミュニタス(融即状態)を生み、そこから日常へと回帰し、再生しようとする力を得るという。そして社会基盤そのものを揺るがされるような未曾有の東北大震災を経て、いま日本全体に、そうした場の物語への回帰現象が起きているとして、思想家・宗教学者の中沢新一氏の『アースダイバー』『大阪アースダイバー』といった出版物の刊行や「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「神戸外国人墓地ツアー」といったツーリズムも、その流れの中に位置づけできると説かれた。また、とくに大阪は聖徳太子一族の滅亡や左遷された菅原道真公、豊臣政権の崩壊など、数多くの悲劇を求心力に発展してきた都市であり、もともと大阪人はそうした歴史の敗者・弱者に対して自然とコンパッションを寄せる霊性があったのに、近年はそれが弱体化してしまっていると警告する。よく大阪が地盤沈下しているというさいに、それは経済的な意味を示唆することが多いが、じつは、こうした大阪的霊性の低下現象こそが問題で、「自分のためだけではなく、他者を思いやるからでこそ生きていける」という経典『スッタニパータ』の慈悲を思い起こして、大阪の霊性を呼び起こす場の物語へ身を投じるようなツーリズムを大切にしようと説いて講義を終えられた。釈さんの言葉のひとつひとつに深い見識と知恵があり、筆者は文字通り圧倒されたが、宗教者側から観光の意味づけを聞くというのは色んな発見があり、今後の「大阪七墓巡り復活プロジェクト」の方向性にも非常に示唆の多い講義であった。改めて釈さんの素晴らしい講義と、こうした講義に参加する機会を与えてくれた應典院の秋田光彦住職に感謝の意を表して、この稿を終えたい。本当にありがとうございました。

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■陸奥賢
1978年生。NPOまちらぼ代表。フリーランスのプロデューサー(現代観光/コモンズ・デザイン/アート)。「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「まわしよみ新聞」「まわしよみ教科書」「葬食」「おかいこさまカフェ」「シェア野草」「堺探検クラブ」など数多くのまち遊び/まち歩きプロジェクトを手掛ける。NPO法人ココルーム理事。大阪府高齢者大学校「まち歩きガイド科」講師。應典院寺町倶楽部専門委員。


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