100年前から釜ヶ崎にあった「新聞縦覧所」(元祖まわしよみ新聞?)

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かつて日本には「新聞縦覧所」がありました。ウィキペディアでは以下のように書かれています。
http://goo.gl/ZdgyIo

「新聞縦覧所とは、公費で新聞を買い上げ、有料または無料で供覧に付していた施設。後に私設の縦覧所も増加した。日本の明治時代を通じ普及、衰退した」「1867年(慶応3年)に最初の縦覧所が設置され、1870年(明治3年)頃から普及。1877年(明治10年)頃に設置のピークを迎えたという。当時は、新聞自体の販売網が整っていなかったこと、また、定期刊行物の体をなしていなかった(不定期発行の)新聞もあり、一箇所でまとめて複数の新聞を読める施設は庶民から重宝された。東京市内でも、公的施設として上野恩賜公園の園内(花園稲荷神社の近辺?)に設置されたほか、全国の主要都市に設置されたほか、公的施設以外でも峡中新聞(現在の山梨日日新聞の前身)のように新聞社自ら社内で閲覧させたケースや、書店が私設の閲覧所として機能していた函館市のようなケースも存在する。明治時代中期になると、都市部では新聞販売店網が整備され、新聞の入手が容易になると徐々に姿を消し始め、やがて公的施設は図書館に吸収されていった。また、明治後期には、矢場(射的場)、銘酒屋と並んで、闇の売春所としても知られていた。銘酒屋の取り締まりが厳しくなるにつれて、新聞や菓子、牛乳などを形ばかりに並べて新聞縦覧所の看板を掲げ、売春やその斡旋を陰で行なっていた」

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「闇の売春所」になったというところに個人的な興味を覚えますがw 大阪にはどこにあったんやろうか?とちょっと他文献を調べていると『横浜貿易新報』(大正10年・1921.1.3-1921.1.7)に「大阪の社会事業」という特集があり、そこの中に大阪市が「新聞縦覧所」を設置したという記事を発見しました。

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大阪市の第一期として発表したるものは左の如くである。
第一期事業計画書
(一)簡易食堂 増設二箇所 此概算十五万円(地所、建物、諸設備費共)
(二)共同宿泊所 新設四箇所
 (一){寄宿舎 職業紹介所}附設の見込
 (二){浴場、食堂 人事相談所(代書を含む) 新聞縦覧所 洗濯所、理髪所 事務員公舎}附設の見込
 (三)一箇所収容 約三百人の見込
此概算六十万円(地所、建物、諸設備費共)
(三)住宅 南北二箇所新設
 (一)一箇所 二百戸の見込
 (二){浴場、託児所 人事相談所(代書を含む)小運動場(運動具付)実費診療所}附設の見込
此概算三十一万円(地所、建物諸設備共)
以下各事業の現況を略説する段取りである。

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「大阪市が斯くの如き膨大なる計画を進めた因縁は、欧州戦乱後、経済界の擾乱と変動とにより経済的には、物価の暴騰となり、思想的には所謂危険思想の蜂起となり、国内騒然として、動揺する秋に当り、大阪市は、蹶起して、生活問題の緩和及安定を図り、労働者の保護を企て、細民及貧民の救済を遂げむとして、大阪市救済後援会を助け、救済資本金を募集したのに初まるのである。この挙に賛し、競って資金を投ずるもの踵をつぎ、大正八年三月十五日寄付金募集締切に際しては、実に九十三万七千六百六十九円八十七銭の巨額を贏ちえたのであるこれに、内務省よりの委託寄付金十二万一千三百七十六円二十一銭及び別途一時取扱金利子金一万一千五百六十四円を合算するときは、総計金一百〇七万〇六百十円〇八銭の巨額となる。これが、そもそも大阪市の経営の基礎となり因りて以て、我国社会事業の本山たる格を占得するに至った次第である。右のような起因であるので、大阪社会事業の特徴は、救貧的であり、労働者救済本位であり、更に、大阪市の特徴より来る産業的な社会事業に集中する訳である」

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記事を読んでいくと、第1次世界大戦が終了して大不況が起こったさいに、大阪は大規模な救民政策を実施したということが書かれています。具体的な数字も列記されていて、それによると国からの委託金はわずか12万円ほどですが、大阪の財界人、市民の寄付金を募集して93万円ほどを集め、利子も含めて、合計107万円以上の資金を投入したとか。横浜の新聞が「大阪の社会事業」なんて特集を組んでいるのは、こうした大阪人の社会事業への理解や充実ぶりを羨ましがっているわけで、まさにタニマチ気質。まちのことは、まちでやる。えらいですな。昔の大阪人は。

また色々と調べると共同宿泊所内に「新聞縦覧所」があったそうですが、では大阪市内のどこに共同宿泊所があったか?というと「九条」「築港」「桜宮」「今宮」やったそうです。このうち「今宮共同宿泊所」が面白くて、『大阪市不良住宅地区調査報告書別冊』を調べると、じつは「まわしよみ新聞」ゆかりの地である「釜ヶ崎の伝説の喫茶っぽいなにかEARTH」と「今宮共同宿泊所」は、目と鼻の先やという事実に気づきましたw

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「新聞縦覧所」と「まわしよみ新聞」。人間のやることはそれほど変わらんし、同じ土地で、100年前にも似たようなものはあったということで。ただ「新聞縦覧所」は上から下に向かって国家や行政や官僚が、国民やら市民やらを啓蒙しようとするポリティカルな動きだったようですが(そこを「闇の売春所」にしてしまうという庶民のエネルギーとしたたかさに乾杯!)、「まわしよみ新聞」は、新聞をおもしろおかしく遊ぼうというもので、もっと児戯で、逍遙遊で、ノイジーで、雑多で、草の根です。ただ、妙に嬉しいですな。釜ヶ崎発祥の「まわしよみ新聞」は、かつて今宮共同宿泊所にあった「新聞縦覧所」の地霊(ゲニウス・ロキ)の再生であったと考えると。こうして連綿と地霊は受け継がれていく。


2013年 10月 13日
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