『北村五一郎遺稿集 堺の民俗と歴史』から堺・旧市街地で行われていた「七墓まいり」についての記述を発見。
「七墓まいりとは堺の近郊の墓のうち、それぞれに七ヶ所を巡拝するもので、従って堺でも南と北の各講では目的墓地を異にしたものである。例をあげると、今は無くなったが、西湊の火葬場と墓地、王子ヶ飢火葬場、浅香山の囚人墓地は必ず詣った順路で、下石津、神石、踞尾、家原、百舌鳥、黒土、三宝の松屋、山本などの墓を巡ったものである。
どのコースも可成りな道程である。朝風の涼しいうちに出発して、帰りは夕方の五時から七時によくその姿を見たものである。何分、徒歩によらねばならなかったものである。足もとどころか全身白埃りにぬれて帰ってきた。老人の多いこと勿論で、まだ酷しい残暑の日中をよく行ったものだと今でも思う。
信仰と大勢の力でやれたもので、「夏やせせぬ」「風邪など病気せぬ」等等の御利益を口伝したことは御多分にもれない。話しはそれだけのものであるが、その巡拝行の中に残暑下、一日中努力の精進をしている事、無縁の仏さま達へのお盆供養であること等は苦を忍んで、まつらざる精霊へ平等の布施をするということはむつかしい。固くな説法よりも自らの人情の発露による一日の菩薩行で現わされると私は感じている。お互いの「施しの精神」は持ち続けたいものである。
七墓まいりは今でも行われているそうである。講の数の少なくなったのは時勢であろう。巡拝も貸切バスが殆どのようである。昼食頃にはチャンと各自の家についているそうである。往年流れる汗を拭き拭き、午後のコースを歩いていた時間頃はひる寝の夢で安楽国でもみていることであろう。時代に順応して私はこれでいいのだと思う。」
(昭和34年7月18日記「回顧雑記集」より)
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色々と興味深いことがわかりました。
①堺の七墓巡りは北庄、南庄の講によって巡る墓地が変わっていたこと。要するに盆の頃に七か所の墓地を巡ればいいということ。
②中には「囚人墓地」なんてのもあったこと。
③「夏やせしない」「風邪をひかない」など御利益が謳われていたこと。
④「無縁の仏さま」「まつらざる精霊」への布施でやられていたこと。一日の菩薩行。
⑤昭和34年(1959)段階では堺の旧市街地では七墓めぐりが実際にやられていたこと。「バスの貸切ツアー」というのもあったらしい。
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「七墓まいりの吊り広告」。昔は盆の頃になると「堺の街々に左図のような吊り広告が出た」らしい。
福岡県古賀市の「古賀すたいる」さんが街角スナップの投稿で西日本新聞社の吉田さんのファシリで実施した「まわしよみ新聞」を紹介してくれて古賀市の公式サイトに掲載されています!
http://www.city.koga.fukuoka.jp/blog/item/2084
「古賀すたいる」さん、ありがとうございます~!^^
■古賀すたいる
http://koga-style.com/
4/14(月)19時より福岡県糸島市の「まちの縁側~糸屋~」さんにて「まわしよみ新聞」を実施予定やそうです。ご興味ある方はぜひともご参加してください~!
ところで「まちの縁側」って延藤先生とも関係あるんでしょうかね・・・? なにはともあれ「まちの縁側」で「まわしよみ新聞」ってええですな~。めっちゃ嬉しいです!^^
以下は「糸屋の住人ブログ」さんより記事抜粋。
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【糸家の4月の予定】4月14日(月)19時~21時 糸家初!!まわしよみ新聞、一緒にしてみませんか?
http://ameblo.jp/itoya0229/archive1-201404.html
糸家初!!まわしよみ新聞、一緒にしてみませんか?まわしよみ新聞をご存じですか? みんなで持ち寄った様々な社会・ジャンルなど新聞から気になった記事を切り抜き、意見交換をしながら切り抜きで一枚の全く新しい新聞を作るワークショップです。対話と作業を通して、誰かと、何かを、もうちょっと深く、あるいは幅広く、知ってみたい方におススメです♪今回は糸家DE寺子屋とコラボして行います。中学生、学生、大人でワイワイ言いながら作成できればと思っています。参加者が多いとより楽しい新聞ができますので、ご興味のある方、一緒にしてみませんか?
■日時:4月14日(月) 19:00~21:00(進捗次第ではもう少し早く終わります)
■場所:まちの縁側~糸家~(糸島市篠原東1-23-8)
■持ち物: 新聞一部 (種類問わず。メジャーなものでも、ローカル紙でも可)
福岡県古賀市の「古賀すたいる」さんが街角スナップの投稿で西日本新聞社の吉田さんのファシリで実施した「まわしよみ新聞」を紹介してくれて古賀市の公式サイトに掲載されています!
http://www.city.koga.fukuoka.jp/blog/item/2084
「古賀すたいる」さん、ありがとうございます~!^^
■古賀すたいる
http://koga-style.com/
『北村五一郎遺稿集 堺の民俗と歴史』から堺・旧市街地で行われていた「七墓まいり」についての記述を発見。
「七墓まいりとは堺の近郊の墓のうち、それぞれに七ヶ所を巡拝するもので、従って堺でも南と北の各講では目的墓地を異にしたものである。例をあげると、今は無くなったが、西湊の火葬場と墓地、王子ヶ飢火葬場、浅香山の囚人墓地は必ず詣った順路で、下石津、神石、踞尾、家原、百舌鳥、黒土、三宝の松屋、山本などの墓を巡ったものである。
どのコースも可成りな道程である。朝風の涼しいうちに出発して、帰りは夕方の五時から七時によくその姿を見たものである。何分、徒歩によらねばならなかったものである。足もとどころか全身白埃りにぬれて帰ってきた。老人の多いこと勿論で、まだ酷しい残暑の日中をよく行ったものだと今でも思う。
信仰と大勢の力でやれたもので、「夏やせせぬ」「風邪など病気せぬ」等等の御利益を口伝したことは御多分にもれない。話しはそれだけのものであるが、その巡拝行の中に残暑下、一日中努力の精進をしている事、無縁の仏さま達へのお盆供養であること等は苦を忍んで、まつらざる精霊へ平等の布施をするということはむつかしい。固くな説法よりも自らの人情の発露による一日の菩薩行で現わされると私は感じている。お互いの「施しの精神」は持ち続けたいものである。
七墓まいりは今でも行われているそうである。講の数の少なくなったのは時勢であろう。巡拝も貸切バスが殆どのようである。昼食頃にはチャンと各自の家についているそうである。往年流れる汗を拭き拭き、午後のコースを歩いていた時間頃はひる寝の夢で安楽国でもみていることであろう。時代に順応して私はこれでいいのだと思う。」
(昭和34年7月18日記「回顧雑記集」より)
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色々と興味深いことがわかりました。
①堺の七墓巡りは北庄、南庄の講によって巡る墓地が変わっていたこと。要するに盆の頃に七か所の墓地を巡ればいいということ。
②中には「囚人墓地」なんてのもあったこと。
③「夏やせしない」「風邪をひかない」など御利益が謳われていたこと。
④「無縁の仏さま」「まつらざる精霊」への布施でやられていたこと。一日の菩薩行。
⑤昭和34年(1959)段階では堺の旧市街地では七墓めぐりが実際にやられていたこと。「バスの貸切ツアー」というのもあったらしい。
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■『北村五一郎遺稿集 堺の民俗と歴史』から「七墓まいり」についての記述を発見
http://wp.me/pxlkK-GE
「堺七墓巡り」で「中村墓地」を調べていたら、妙な「円形」を発見。なんやこれ?と思って調べたら旧帝国陸軍の「高射砲陣地」の跡地でした。そういえば「昔、大泉緑地に砲台があった」というウワサは聞いたことがありました。墓と砲台。なかなか凄い図式ですな。
「堺七墓巡り」の「②我堂墓地」で驚いたのが「須弥像碑」。これを建立した人物が堺・正覚寺の橘堂流情住職という方らしいんですが、この方をググってみたら『須弥山儀図附録』という編著があることを知りました。「須弥山儀図」(仏教的宇宙論)の解説書のようなものですな。明治18年(1885)の本で、この後、明治26年(1893)に以下の「須弥像碑」を建立したことになります。
明治維新で開国して、近代日本の科学主義が入ってくる中で、「須弥山の解釈本」というのは時代の流れからは逆行してます。そういう人やったんでしょうな。