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観光とは「意外の哲学」の実践

2015 年 2 月 8 日

「観」というのは人生観、哲学観、恋愛観といった言葉があるように、その人にとっての「世界認識」と言い換えることもできます。その固定化、硬直化された世界認識に意外な角度から光を照射して「あれ?へんやな?」「え?こんなんやったっけ?」と揺るがせる実践のことを「観光」といいます。「観光家」というのは、その大家であるという畏れ多い尊称ですw

要するに観光というのは決してビジネス用語でも経済用語でもないということでして。世の中の大部分の人は観光というと、どうも「観光産業」のこととカンチガイしている。しかし観光という言葉本来の意味を読み解くと「物事の認識のあり方を変える」というもので、ぼくからいわせると「観光とは観光哲学である」となる。さらに付け加えるならば「観光とは『意外の哲学』の実践や」とぼくは考えてます。

新聞を「情報入手のための学びのメディア」ではなくて「コミュニケーションのための遊びのメディア」にする。本を「通読するもの」という認識から「直観でフレーズを抜き出してブックマーカーを作る」というオモチャにする。「昇っていく人生スゴロク」ではなくて「降りていく人生スゴロク」を作り、失敗・挫折・苦労こそが人生の華と宣言する。新聞観やら本観やら人生スゴロク観(w)を意外な角度から光を照射して「妙なもの」にして体験者の価値観や存在を揺さぶる。「まわしよみ新聞」も「直観讀みブックマーカー」も「当事者研究スゴロク」もそういう意味でいえば、ちゃんと観光家としての仕事でして。「むつはなにをしてるんか?ようわからん?」としょっちゅういわれるんですが「いや、観光ですよ」とぼくは胸を張っていいます。ただ哀しいかな。あんまりお金にはなりませんww 観光産業ではなくて観光哲学の実践ですからww

観光が、観光産業化し、あんまりにも手垢に塗れて、もはや資本の奴隷と化してますから。ぼくはそのアンチテーゼとして本来の観光=観光哲学をやっている。観光の本義、本質を実践している。それで観光産業界から敵にされて、干されて、食えんでもええと(まぁ、観光産業の人からすれば、ぼくがやってることなんて明後日の方向すぎて、まったく意味不明で、誰にも相手にされてませんがww)。そういうアホがひとりぐらいいてもええやろうと。ぼくなりに「観光家」と名乗るだけの覚悟はしてるってことですな。

「観光家なのになんでスゴロク遊びとかやってるんですか?」と聞かれたので。まぁ、以上が答えといえば答えです。


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