まわしよみ新聞は「語」やなくて「諧」の場である
まわしよみ新聞は「語」やなくて「諧」の場である・・・過去の、1年前の投稿です。FBが教えてくれました。おれ、こんなん書いてたんやw
「スキマ」があるとなぜ語りやすくなるのか?・・・マニアとかオタクを想像してもらうとわかりやすいんですが、やたらとディープな情報ソースをもってる人と話をすると、会話や対話にならなくて、ただの「演説」というか、「一方的な場」になるんですな。相手が9割話して、片方は1割(せいぜい相槌ですな。「へえ」とか「そうですか」とか)ぐらいしか返すことができない。これがぼくのいう「スキマがない」という場でして。こういう場では「語」は決して「諧」とならない。
まわしよみ新聞はその場で新聞を広げて、情報ソースを選択します。「これに無我夢中なんです!」「100%好きなんです!」といった情報ソースと出逢うなんてことはほぼなくて(時々はありますが)。切り取られる記事は「ちょっと気になったんです・・・」「はじめて知ったんですが・・・」「なんとなく興味ひかれまして・・・」といった程度の記事なんですな。好き具合でいえば「50%好き」とか「60%好き」といった割合。そうした情報ソースには40%、50%の「スキマ」がある。だから、他者が「あ。いいですね」と自然と乗っかることができる。
熱狂的なファンと話をすると、怖いんですわ。「アイドルのAちゃん最高!!!」って人と話をして、それに付き合おうと思うと「ほんまやで!Aちゃん最高だよな!!!」と「同等レベルのハイテンション」でないと話にならない。「Aちゃんですか。かわいいですね」ぐらいの中途半端な好きの表明やと「お前はAちゃんのことがわかってない!!」と説教になりかねないw
他者と場を共有したいときは「スキマ」とか「余白」とか、そういったもんが大事なんですな。そうしないと「双方向の場」にならない。まわしよみ新聞は、そういう「スキマ」とか「余白」だらけの場になる構造、デザインです。だから場が自然と盛り上がっていく。
いまの世の中、どうも「一方的な場」が多すぎるように感じてまして。ぼくはなるべく「双方向の場」を作りたいと思ってます。もっともっと「スキマ」や「余白」がある場を。
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【以下、1年前の投稿】
龍谷大学の講師さんから「まわしよみ新聞を授業に取り入れたいです」とご丁寧なメールを頂く。関西学院大学の白波瀬さんがご紹介してくれたとか。ありがたいことです(白波瀬さん、ありがとうございます!w)。
まわしよみ新聞、オープンソースのメディア遊びで、大学はもちろん公民館、商店街、コミュニティ・センター、看護福祉施設、老人ホーム、小中高、会社、家、どこでも自由に使ってええというもんです。メディア遊びというてるから「所詮、遊びなんやろ?」と思われがちですが、じつはアクティブ・ラーニングには恰好の素材です。
先生・講師がトップダウン式で「これ(テーマ)について新聞を調べてきなさい」というもんやないんですな。生徒自身が「新聞読んでたら、こんな記事あった。ぼく、こんなん好きですねん」と語る・・・というボトムアップ式なんで、勝手に生徒の「当事者性が発動する」わけです。それを生徒同士でお互いにシェアするので「他者性を知る」(コミュニケーション・ツールになる)ということにも繋がっていくと。
面白いのがAさんがAという記事を切って話をしたら、BさんがAさん以上にAという記事について熱く語り出したり、それをうけてCさんがさらに思いっきり話を脱線させて・・・と、まるで誰の記事なのかわからないようになるという「乗っ取り現象」が起こるとき。これは「当事者性」と「他者性」が入れ替わって、二重螺旋構造のようになるんですな。この瞬間がまわしよみ新聞の最もエキサイティングな部分でして。「集団の物語」「共作のドラマ」が立ち上がるというか・・・なかなか言葉しにくいんですが、これはまわしよみ新聞をやったひとにしかわからない衝撃かもしれませんw
要するに「語り」(言+吾)というのは「一人称(吾)の言葉」に過ぎないわけです。それが「諧」(言+皆)という「みんな(皆)の言葉」になると笑いが起きるし、ユーモアになると。まわしよみ新聞は「語」(ひとりの言葉)を「諧」(みんなの言葉)にする場やと思えば、わかりやすいです。
※なんで「語」が「諧」になりやすいのか?というと新聞記事が「スキマだらけ」であるからです。これについてはまた機会があれば書きます。書かないかも知れませんがw