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ぼくの一連のコモンズ・デザイン・プロジェクトはローレンス・レッシグ『コモンズ』を読んだことがひとつのキッカケです(もうちょい詳しく言うと、應典院コモンズフェスタに参画することになって慌てて読んだんですがw)

2017 年 3 月 3 日

「コモンズ」といえばの名著。いずれ古典になるんでしょうな。ローレンス・レッシグはクラウドファンディングでアメリカ大統領選挙資金を応募した大学教授です。残念ながら資金が集まらずで選挙は断念しましたが、ぼくがいちばん期待してたのはこの人でした。

ぼくの一連のコモンズ・デザイン・プロジェクトは『コモンズ』を読んだことがひとつのキッカケです(もうちょい詳しく言うと、應典院コモンズフェスタに参画することになって慌てて読んだんですがw)。それで所有権、知的財産権を解放し、だれでも改変自由なオープンソースの「仕掛け」「仕組み」「遊び」を作って、それをリアルな、現実空間で展開するとどうなるか?…という社会実験を思いついたわけです。もちろん、こんなことをしても、個人財にはなりませんが、ぼくは共有財、社会財を作りたいと思ったわけです。

ただ、意外と現実空間でもコモンズとして展開しているものは数多くありまして。例えば落語なんかは完全にコモンズなんですな。とくに古典落語は「作者名」がなくて、いろんな落語家さんが何十年・何百年と時をかけて、同じ噺を付け足したり、引いたり、所作を変えたり、再構成したりして、オープンソースで展開して、集合知で練磨されて、いまのカタチに収まった。

江戸落語なんかも、その7割は上方落語がルーツであるといわれてますが、これ、大坂の落語家が江戸に下って噺を教えたんですな。大坂の落語家が権利を主張して「この噺はおれしかやってはいけない。江戸の人間はやるな!」なんてことをいってたら、いまの江戸落語の隆盛はなかったわけです。

今後も落語は、そうやって所有権、著作権を主張せずに、いろんな落語家に編集、再編集、再再編集されて展開されていくことで、時代を超越した「永遠の新作」として存在しうる。コモンズの可能性というのは、そういうところにあります。

まわしよみ新聞やら直観讀みブックマーカーやら当事者研究スゴロクやら歌垣風呂やら劇札やらも、いろんな人に携わってもらい、勝手に自分独自のアレンジをして、集合知でバージョンアップしていけたら…と思ってます。そこにしか、コモンズの未来はない。

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■ローレンス・レッシグ『コモンズ ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』

https://www.amazon.co.jp/dp/4798102040/

アメリカでは著作権にまつわる問題が噴出している。もはや著作権の本来の意義を大きく超え、創作活動に悪影響を及ぼすまでになったと主張する向きも多い。この潮流はインターネットの世界においても同様であり、ソースコードを公開する「オープンソース」の立場と企業が中心となるソースコードを明かさない立場が互いの優劣を競い合っている。どちらが真に優れたコードを作り出し、発展に寄与するものなのか? さらに拡張してフリーなリソースとはどのように発展に寄与するものなのか? 本書はこの部分について解説を試みている。

本書のキーワード「コモンズ」は共有性、すなわち多数の人々によって平等に保有または享受されることを意味する言葉だ。話はインターネットの創生から始まるが、電話網に代表されるワイヤードにおける「コモンズ」の寄与、そして無線世界でのアプローチなどを踏まえ、「コントロール」するべきものとするべきでないものを明確に定義し、インターネットでの所有権のあり方について議論を行っている。昨今のアメリカでは音楽の配信・映画の配信に伴う著作権の問題や一部企業の製品による独占的な市場のコントロールの問題に対して重要な判決が下されているが、このような事態に対して著作権は企業が利益を確保するための手段に成り下がり、本来の目的から大いにゆがめられていると世間からも非難の声が上がっている。ましてやアメリカではミッキーマウスの著作権に代表されるように行き過ぎた面が見られる。

本書はそのような流れに対し、最も進歩を促すリソースの所有形態を提示している。当然、本書の意見については企業としては賛同できない部分もあるかもしれない。しかし自社の製品を生み出す源泉がいったい何であるのかを考えれば、そして市場の成長を促すものが何であるのかを考えれば、行き過ぎた所有権はトータルでマイナスに働くということに気が付くだろう。

本書はインターネットでの所有権のあり方について、その意味と理由を含めて学ぶことのできる書籍として大いに役立つだろう。インターネットを信奉するすべての人におすすめしたい。(斎藤牧人)

内容紹介
サイバー法の第一人者レッシグ氏による待望の新刊!

前著『 CODE』は昨年春刊行以来、坂村健氏(コンピュータ学)、東浩紀氏(哲学研究者)、西垣通氏(メディア論)をはじめとした有識者たちにジャンルを超えた反響を起こし、いまやサイバー法議論においてそれ抜きには語れない名著となった。インターネットがあたりまえになった現在、いま起きているネットと法律にまつわる最高にホットな論点を、レッシグ&山形浩生(翻訳)のコンビで贈る!

既存のネット関連の本は、所有権強化こそが技術革新につながるという議論を展開し、ネットについても著作権侵害のツールという面だけが強調されることが多かった。本書はこれにまっこうから対立し、所有権強化はかえって技術革新の可能性を殺し、われわれすべてにとって悪い結果をもたらすと明確に論じている。アメリカに追随して各種所有権強化の声があがっている日本にとっても、いま考えなければいけない重要なことだ。

前作『CODE』より内容の具体性も高く、マイクロソフト裁判の背景なども詳解する。あまり理解されていない司法省側の議論が、ここで明示され、知的財産権の分野で働く人のみならず、ネットに関心のある一般の読者にも必携の一冊。

AUTHORBIO: ■ローレンス・レッシグ…スタンフォード大学法学教授であり、サイバー法の世界的な第一人者。
邦訳『CODE』(翔泳社刊)はネットとサイバー法の新しい視点を提示した。

内容(「MARC」データベースより)
自由か、コントロールか? 革新か後退か? インターネットの自由を守るためにいかなる規制が必要なのか、「自由のための規制」について論じる。2001年刊「CODE」に続く、より実践的な書。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
レッシグ,ローレンス
イェール大学のロースクール卒業。最高裁判所の裁判官の書記を務めた後、シカゴ大学、ハーバード大学を経て、現在、スタンフォード大学にて憲法、契約、サイバースペースの法律の教鞭をとる。Microsoft社の独占禁止法裁判において連邦裁判所に「スペシャルマスター」に任命されたサイバー法の第一人者として注目される

山形/浩生
1964年東京うまれ。東京大学都市工学科修士課程およびマサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。大手調査会社に勤務のかたわら、小説、経済、ネット文化、コンピュータなど無節操なほどに広範な分野での翻訳および各種の雑文書きに手を染める。フリーソフトの社会経済的な意義に関しても造詣が深い(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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