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2022 年 4 月 8 日 のアーカイブ

新潟港と唐物荷抜事件

2022 年 4 月 8 日 Comments off

新潟市立博物館。新潟港は江戸時代は長岡藩領だった。それが幕末に天領になる。何故、天領になったのか?というと、薩摩藩の密貿易に携わっていたから。「唐物荷抜事件」という。

天保6年(1835)、天保11年(1840)と2回も幕府に発覚し、長岡藩はお咎めとして新潟町、新潟港を没収される。その後、1843年に新潟奉行が開かれ、川村修就が着任した。この川村修就はのちに堺奉行、大坂町奉行、長崎奉行を務めた優秀な幕臣で、あの勝海舟が「三河武士の鑑」と褒め称えているほど。

ちなみに修就の孫が川村清雄で、祖父の大坂赴任にも付き添い、大阪時代には当時、超一流の南画家であった田能村直入に教えを受けている。清雄はのちにパリ、ヴェネツィアにも留学し、近代日本最初期の洋画家として大成した。洋画家とカテゴライズされるが、日本画の要素も渾然一体となっていて、この味はなかなか他にない。和洋折衷建築のような時代の美術だがユニークな画風で僕は好きですw 話が逸れた。

新潟港は天領となったことで大きく運命を変える。なによりも日米修好通商条約の開港五港のうちの一つとして選ばれたことが大きい。もし唐物抜荷事件がなくて幕末まで新潟港が長岡藩領であったら幕府の一存では開港が決められない。ある意味、唐物抜荷事件のおかげで新潟港の運命が決まった…というと言い過ぎかw

しかし正直、新潟港は阿賀野川、信濃川の二大河川の土砂堆積が凄まじく港湾施設としては課題が多かった。この辺りは大和川、淀川の二大河川を持つ大阪と共通する欠点を持っていて、大阪も川口港が開港したが、遠浅の海で全く外洋船が横付けできないので不人気となり、あっというまに神戸港(神戸は天然の良港)にお株を奪われた。大阪港が国際港として再浮上するのは天保山の先に大阪築港、築港大桟橋(明治36年、1903)を建設して近代港湾となってから。

新潟港も開港したはいいが国際港としてはあまり流行らず、長くサケやマスの遠洋漁業の基地として使われたという。つらい。その後、大阪港のように大規模改修工事を行い、昭和初期に近代港湾として整備されていった。

特に新潟港が大発展を遂げるのが昭和4年(1929)の満洲航路の開設。その後の昭和6年(1931)の上越線全線開通で東京〜新潟〜満州〜新京の日満ラインが繋がった。新潟港発展の歴史は、ある意味、日帝発展の歴史とリンクするが、それも1945年の敗戦によって終焉を迎える。

戦後は日本海側唯一の中核国際港湾だが、国際航路は正直、あまり芳しくない。北朝鮮の万景峰号の入港は話題ではあったが、これもいまはない。かつてはウラジオストクやナホトカを結ぶ航路もあったらしいですが近年は全く使われていないとか。

ロシアや北朝鮮とのフェリーが平和に、安全に行き来できるような時代になれば、新潟港は大発展するだろうが、なかなかそんな時代はきそうにないですな。冬の時代が長い。つらい。


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