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2022 年 4 月 のアーカイブ

大阪まち歩き大学。西長堀。大阪木材市売市場発祥の地。

2022 年 4 月 8 日 Comments off

大阪まち歩き大学。西長堀。大阪木材市売市場発祥の地。

大阪は材木市場のまちだった。木材は切って、すぐ使えるわけではない。切ったばかりの木材は生木で、まだ木の内部に養分が生きている。生木をそのまま木材として使ってしまうと芽が出たり、成長(膨張)したりして家具が歪む。

切ったあとは乾燥させることで質の良い木材となる。近代は専用の乾燥室などがあるが江戸時代にはそんなものはない。だから水中乾燥という方法が使われた。木材を池や沼地の貯木場に沈めて、そうして木の養分をゆっくりと抜いていく。

水中に入れることで乾燥はゆっくりとなる。切った木材を外に放置していると乾燥が早く割れやすくなる。水中乾燥はその心配がない。ただ木の種類にもよるが長いものは10年20年と寝かしたりするという。

早く乾燥させたいときは海水につける。海は塩水だから浸透圧の関係で木の養分の抜けが真水よりも早い。しかしあまり早く抜けると木の香りなども抜けて木が死んでしまう。

いちばんいいのが真水と海水をブレンドにすること。そして、これが大阪の堀川だった。大阪は満潮や干潮によって時には淀川、大川の水が流れ込み、また時には大阪湾の海水が流れ込む。汽水のエリアで真水と海水が入り混じる。これがじつは木の乾燥にいっちゃん適している。

海水で他よりも早く木の成分が抜け(商品として市場に出るのが早い)、しかし川水で、木の香りなどは保たれる。大阪の堀川は良質な貯木場であり、だから木材市場が立ち、殷賑を極めた。その最大の市場が西長堀川界隈だった。

大阪は位置もよかった。畿内半島には紀州があり、日本最大の木材生産地で大阪は近い。さらに大阪湾は瀬戸内海の東に位置していて、四国や九州の山々の良材も運び込まれた。船でそのまま大阪湾に入り、大阪市中の堀川で貯木された。

僕もこどもの頃は西道頓堀川あたりで木が浮かんでいたのを覚えている。こどもがよく遊んでツルッと滑って川に沈んでしまい、不幸な事故も多かったという。「絶対にこどもは貯木場では遊んでいけない!」というのが決まりだった。それを破ると本気で親や木材屋に殴られたという。

貯木場は近代は大正区に多かった。その後、大正区の貯木場の大部分は埋め立てられ、住之江区あたりに移転した。南港、平林あたりには今も巨大な貯木場が並んでいる。

モノレール越しに貯木場を眺めるのが好きだが正直、あまり木は浮かんでいない。どこか寂しい光景となっている。しかし、それがまた良い。時代の流れというやつだろう。


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新潟市内を歩いていた時に発見した石宮神社

2022 年 4 月 8 日 Comments off

新潟市内を歩いていた時に発見した石宮神社。石が神さん。こういう神社は好きですな。江戸時代の「流作場」というエリアにあったとか。

新潟は文字通り、潟ばかり。すぐ水につく。いろんなものが流れていく。流作場なんてのは名前からして危険。そういう場所にあっても流されない巨石であったのだろう。神の石として崇められる。

また、実は、あえて「流作場」なんて大変な名前をつけることで、しかし年貢を免除してもらう…という意味合いもあったりする。「ここは田畑作ってもダメなんですわ大変なんですわすぐ流されるんですわ(=だから免税地にして)」PR。

荒田とか窪田とか沼田とか泥田とか、なんでそんなダメな地名に?と思いますが、実は、あえて、そういう名前にして免税地、税金免除を狙ったりしたとか。

農民は、庶民は、常に、したたかであります。


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新潟市立歴史博物館。坂口家と新潟。新潟新聞の人々。新潟の新聞と地主文化。

2022 年 4 月 8 日 Comments off

新潟市立歴史博物館。坂口家と新潟。新潟新聞の人々。新潟の新聞と地主文化。

新潟県立歴史博物館(長岡市)は以前に行ったことがあったが、新潟市立歴史博物館は初であった。地味にアクセスしにくいところにあるし…。「安吾風の館」は5回ぐらいいってるのですがw

新潟市立歴史博物館での安吾関連の展示はちょっとだけ。そりゃそうかw

安吾の父・仁一郎は新潟新聞の社長で、政治家でもあった。新潟新聞は民政党系の新聞だが、そのライバルが新潟毎日。こちらは政友会系の新聞で「新潟新聞」と「新潟毎日」は常日頃から紙面上でお互いを罵りあっていた。

当時のメディアはプライバシーや人権に対する概念が低い。個人攻撃も激しく社長の仁一郎の家族にもそれが及んだ。安吾の母(仁一郎の妻)はそれでノイローゼ状態になり、いろんなストレスから安吾への接し方が歪み、育児放棄、ネグレストのような状況になったらしい。

母との確執は安吾の自伝的小説群に詳しい。これがいずれも名作、傑作揃い。僕は多大な影響を受けておりますw


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新潟港と唐物荷抜事件

2022 年 4 月 8 日 Comments off

新潟市立博物館。新潟港は江戸時代は長岡藩領だった。それが幕末に天領になる。何故、天領になったのか?というと、薩摩藩の密貿易に携わっていたから。「唐物荷抜事件」という。

天保6年(1835)、天保11年(1840)と2回も幕府に発覚し、長岡藩はお咎めとして新潟町、新潟港を没収される。その後、1843年に新潟奉行が開かれ、川村修就が着任した。この川村修就はのちに堺奉行、大坂町奉行、長崎奉行を務めた優秀な幕臣で、あの勝海舟が「三河武士の鑑」と褒め称えているほど。

ちなみに修就の孫が川村清雄で、祖父の大坂赴任にも付き添い、大阪時代には当時、超一流の南画家であった田能村直入に教えを受けている。清雄はのちにパリ、ヴェネツィアにも留学し、近代日本最初期の洋画家として大成した。洋画家とカテゴライズされるが、日本画の要素も渾然一体となっていて、この味はなかなか他にない。和洋折衷建築のような時代の美術だがユニークな画風で僕は好きですw 話が逸れた。

新潟港は天領となったことで大きく運命を変える。なによりも日米修好通商条約の開港五港のうちの一つとして選ばれたことが大きい。もし唐物抜荷事件がなくて幕末まで新潟港が長岡藩領であったら幕府の一存では開港が決められない。ある意味、唐物抜荷事件のおかげで新潟港の運命が決まった…というと言い過ぎかw

しかし正直、新潟港は阿賀野川、信濃川の二大河川の土砂堆積が凄まじく港湾施設としては課題が多かった。この辺りは大和川、淀川の二大河川を持つ大阪と共通する欠点を持っていて、大阪も川口港が開港したが、遠浅の海で全く外洋船が横付けできないので不人気となり、あっというまに神戸港(神戸は天然の良港)にお株を奪われた。大阪港が国際港として再浮上するのは天保山の先に大阪築港、築港大桟橋(明治36年、1903)を建設して近代港湾となってから。

新潟港も開港したはいいが国際港としてはあまり流行らず、長くサケやマスの遠洋漁業の基地として使われたという。つらい。その後、大阪港のように大規模改修工事を行い、昭和初期に近代港湾として整備されていった。

特に新潟港が大発展を遂げるのが昭和4年(1929)の満洲航路の開設。その後の昭和6年(1931)の上越線全線開通で東京〜新潟〜満州〜新京の日満ラインが繋がった。新潟港発展の歴史は、ある意味、日帝発展の歴史とリンクするが、それも1945年の敗戦によって終焉を迎える。

戦後は日本海側唯一の中核国際港湾だが、国際航路は正直、あまり芳しくない。北朝鮮の万景峰号の入港は話題ではあったが、これもいまはない。かつてはウラジオストクやナホトカを結ぶ航路もあったらしいですが近年は全く使われていないとか。

ロシアや北朝鮮とのフェリーが平和に、安全に行き来できるような時代になれば、新潟港は大発展するだろうが、なかなかそんな時代はきそうにないですな。冬の時代が長い。つらい。


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大阪まち歩き大学。勝山の浄念寺さんの北にある地蔵尊。1959年12月に「青磁」という方が書かれた地獄絵が掛かっている。これがなかなか味があって良い。

2022 年 4 月 7 日 Comments off

大阪まち歩き大学。勝山の浄念寺さんの北にある地蔵尊。1959年12月に「青磁」という方が書かれた地獄絵が掛かっている。これがなかなか味があって良い。

やっぱり地蔵堂には地獄絵図がないとねえ。

浄念寺さんは珍しい融通念仏宗の寺院。大阪市内ではちょくちょく見かける。融通念仏宗は「お血脈」の信仰を持ち、これは天海や等順(善光寺中興の祖)にも多大な影響を与えた。落語の「お血脈」の題材にもなっている。


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大阪まち歩き大学。玉造まち歩き。玉造稲荷神社。 日本航空の朝田静夫社長が寄進した玉垣。

2022 年 4 月 7 日 Comments off

大阪まち歩き大学。玉造まち歩き。玉造稲荷神社。

日本航空の朝田静夫社長が寄進した玉垣。大阪市出身で官僚となり、運輸省トップの事務次官になり、天下りで1971年に日本航空の社長になった。

しかし朝田時代の日航は日本航空ニューデリー墜落事故、日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故、ドバイ事件、羽田発那覇行きジャンボ機乗っ取り事件、ダッカ日航機ハイジャック事件と、事故、事件、不祥事のオンパレード。

当時はあんまりにも体制が酷いので国会で安全管理体制がなってないと追求されたりもしたが、朝田静夫は天下りのワンマン社長らしく、長く社長の座に君臨し続けた。

その後、1981年に社長から顧問となるが、次の高木社長時代の1985年に日航ジャンボ機墜落事故が起きてしまう。高木養根社長は事故の責任で社長を辞めて以後、毎年のように御巣鷹山に慰霊登山を続けていた。僕もこどもの頃にテレビのドキュメンタリーかニュース番組で、その様子を観たことがある。遺族にも謝罪の訪問を繰り返していた。

ヒヤリハットではないが、ああいう悲劇的な大事故が起きる背景には日航体質というか、組織的な問題があったろうと思われる。朝田時代の不祥事の数々がそれを証明している。そういう意味ではやはり朝田社長の責任は大きいだろう。

そういう組織の問題、組織の闇、組織の恐ろしさについて追求したのが山崎豊子の『沈まぬ太陽』。小説の中で登場する小暮社長のモデルが朝田社長といわれてます。


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新潟市民のソウルフードらしいです。みかづきのイタリアン。

2022 年 4 月 7 日 Comments off

新潟市民のソウルフードらしいです。みかづきのイタリアン。

焼きそばにまさかのミートソース。これがですね。意外とイケるw

名古屋の方には大変、申し訳ないんですが、名古屋名物のあんかけスパよりかは、こちらの方が好きかもしれません。申し訳ございません。

まあ、新潟は焼きそばで、名古屋はパスタですから、比べるものでもない。


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万代バスセンターのカレー

2022 年 4 月 7 日 Comments off

しかし新潟といえば万代バスセンターのカレーでしょ?といわれ、何度も何度も食べたいと思いつつ、タイミングが悪く行くたびに大行列で諦めてたんですが今回、ようやく人生初のバスセンターのカレー。

美味でした…。これは人気になるのも当然。大満足。新潟いったらバスセンターのカレーです。間違いない。ビックリした。


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『沖縄人として日本人を生きる』

2022 年 4 月 7 日 Comments off

久しぶりに関西沖縄文庫の金城-金城(カナグスク-キンジョウ)馨さんに会う。ついつい話し込んでしまった…。

『沖縄人として日本人を生きる』をご恵贈頂く。中を開くと大阪あそ歩の大正区・平尾のまち歩きマップが。金城さんにいろいろと話を聞いて作ったマップ。たぶん2009年頃の制作で、もう13年前か。懐かしい…。


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大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。順徳天皇御配所跡。黒木御所跡。

2022 年 4 月 7 日 Comments off

大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。順徳天皇御配所跡。黒木御所跡。

順徳天皇はある意味、最後の天皇といえる。百人一首では最後の100首目が順徳天皇(順徳院)。99首目が順徳天皇の父の後鳥羽上皇(後鳥羽院)。この二人は承久の乱で鎌倉幕府(北条政子、義時)に敗北し、遠島された。天皇家が初めて庶民に敗北した。この時、古代から連綿と続いていた天皇家の政治的権力は地に堕ちたといえる。

天皇、公家といった貴族が貴族たる由縁は「歌を詠む」ところにある。天皇は言霊の司祭であるが、その大いなる仕事は「勅撰和歌集」を編むことだった。中国の歴代王朝は散文の歴史書を編纂することで王権を継承したが、天皇家は詩文の和歌集を編纂することで、その系譜の正統性を証明した。

勅撰和歌集は『古今和歌集』(延喜5年・905年)から『新続古今和歌集』(永享11年•1439年)まで534年間に「二十一代集」が作られているが、特に初期の8つは「八代集」として和歌の世界の古典とされる。

この八代集の最後『新古今和歌集』の編纂を命じたのが後鳥羽院で藤原家隆、藤原定家などが編者となり、1216年頃に完成する。しかし完成の5年後に後鳥羽院は承久の乱(1221)で隠岐島に流される。
その後、後鳥羽院は隠岐島で19年間を過ごしたが、その間に何をしていたか?といえば、この「新古今」を一人で黙々と改定し続け、2000首ほどから400首を外し、1600首ほどに再編集した。俗にいう「隠岐本」でマニア(?)は「こちらこそ真の新古今!」と持ち上げたりする。

重要なのは後鳥羽院が隠岐島に流されたさいに、政治的な仕事は何もかもなくなり、しかし自分にできる仕事として新古今を編集し続けた…ということ。天皇は言霊(歌)を司るから、その天皇としての自分の存在証明として隠岐本を作成した。怨念めいているというか怖い本です。隠岐本。これ、完成した後、後鳥羽院は藤原家隆卿(定家ではない。定家はあっさりと武家政権に擦り寄った)に送ってますが家隆卿も後鳥羽院の執念に身震いしたんやないやろか。

後鳥羽院の息子である順徳天皇は佐渡島に流された。父の後鳥羽院は1239年に隠岐島で60歳で亡くなる。順徳天皇はその3年後の1242年に44歳で佐渡島で亡くなった。

順徳天皇も佐渡島で21年ほど過ごしたことになる。この黒木御所で一体、何をしていたのか?やはり和歌を作っていた。それが『順徳院御百首』。後鳥羽院、藤原家隆に送り、点(添削、批評)をつけてもらっている。

黒木御所跡に足を伸ばすと釈迢空(折口信夫)、与謝野寛、斎藤茂吉、松瀬青々など近代歌人の石碑に取り囲まれていた。近代天皇制が生まれて天皇の復権が成された結果、近代歌人たちが挙って古代の天皇に挽歌を贈った。なるほどなあ。


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