「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の千日墓地編で使用したレジュメ
「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の千日墓地編で使用したレジュメ。七墓巡りの資料として公開しておきます。
■8/12(月)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ④千日編】「舞踊家・木室陽一による舞踊ワークショップ」と千日まち歩き
http://www.facebook.com/events/209576585862450/
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【悪所狂ひの身の果ては、角の芝居か?千日墓地か?】
~大阪七墓巡り復活プロジェクト 千日墓地のゲニウス・ロキ(地霊)を語る~
●大阪夏の陣で討ち死にした安井(成安)道頓
安井道頓は秀吉に仕え、大坂城の外壕を掘鑿に対する賞として城南の地を拝領。その後、豊臣家の許可を受けて私財を投じて水路開発に着手。ところが1615年(元和元年)の夏の陣で自分の堀川を埋め立てられる。道頓堀はすでに武士を引退していたが、なんと82歳の高齢で大坂城に立てこもり、城内で壮絶に討ち死に。いまの道頓堀川は戦後、幕府によって掘り返され、その名前は彼の功績(怨霊鎮め?)を讃えて「道頓堀」となづけられた。非常に「豊臣の匂い」「豊臣色」が強い土地で、そこに戎(えびす)を信仰する被差別民の河原者(芸能の民)が集まり、やがて芝居小屋(道頓堀五座)が生まれてきた。
●道頓堀川にかかる戎橋
戎橋は今宮戎神社への参詣道。現在は戎橋筋商店街になっている。戎神は日本古来の漂流神で、流れ者、芸能の民の神となった。人形を用いて戎信仰を広めた芸能民として「傀儡師」(くぐつし)たちがいて、これが「人形浄瑠璃」「文楽」「からくり芝居」となり、果ては「くいだおれ人形」(電気仕掛けのからくり人形)に通じる。
●道頓堀(芝居小屋)と千日前(墓地、死刑場)が産んだ近松門左衛門の「虚実皮膜論」
角座(道頓堀五座の中で最大の小屋)からは、小屋裏にあった千日墓地の罪人の晒し首が見えた。大坂の芝居は世話物で和事。江戸芝居のような英雄悪漢・傾城傾国の美女が大活劇を繰り広げる!という荒事ではない。主人公は何の変哲もない町衆で、金と色と欲と義理と人情の板ばさみで、犯してはならぬ罪咎に悩み、苦しみ、傷つけられ、最後は天網恢恢疎にして洩らさずの過酷な運命の裁きで千日前の獄門台へと涙涙に送られていく。大阪の町衆は角座で千日墓地の罪人たちのドラマに涙した。千日刑場は最高の演出であり、また裏を返せば、道頓堀の芝居は、千日の罪人たちに対する鎮魂劇であり、レクイエムだった。芝居なのか?真実なのか?わからない。「虚実の皮膜」(近松門左衛門)こそが、もっとも面白い。芝居小屋と刑場。道頓堀と千日前というまちは、そういう関係にある。
●近松門左衛門『曾根崎心中』のスピード感
『曽根崎心中』は、元禄16年4月7日(1703年5月22日)に遊女「はつ(21歳)」と手代「徳兵衛(25歳)」が露天神で情死した事件が題材。人形浄瑠璃『曽根崎心中』は一か月後の5月7日(6月20日)に道頓堀の竹本座で初演された。この生々しさ。まるでニュース番組のようなスピード感で、近松は関係者を片っ端から聞き取り調査、リサーチしている。近松は作家というよりは、一種のドキュメンタリスト、ジャーナリストといえる。
●千日墓地からお化け屋敷、見世物小屋に
千日墓地は明治2年(1869)に廃止され、土地は競売に。しかし、だれもこんな禍禍しい土地は買わない。ところがここを興行師(というよりも山師の類)が買い取って「お化け屋敷」(ちゃんとゴールできたら返金という宣伝が評判を呼んだ)を作り、大ヒット。そこから化け物屋敷→見世物小屋→フリークスのまちになった時代もある。これはしかし「ミナミの大火」(明治45年・1912年)によって灰燼と化し、その記憶も忘れ去られている。また千日前から初めての映画製作興行会社が誕生しているが、当時の洋物映画は怪物映画(フランケンシュタイン、ドラキュラ、狼男、ミイラ男など)が主流だったことも忘れてはならない。
●土壇場
人間の体の中で、一番重いものは頭。首を斬られると、まず頭が「ドタン!と落ちる。そのあとにゆっくりと力の抜けた首のない胴体が「バ!」っと伏せる。ドタンバは、つまり人間が首を斬られたさまを表すリアルな「擬音語」。
●大阪七墓巡りはなぜ「七つの墓」なのか?・・・妙見信仰
かつて千日刑場前には蓮登山自安寺があった。自安寺は、徳川中期の寛保2年(1742)に日蓮宗の門跡寺院(大本山本圀寺の末寺)で、慈光院日充上人(本圀寺歴代上人)が創建し、境内に本堂・妙見堂・鬼子母神堂・浄行菩薩堂・清正公神祇堂・秋山白雲霊神堂・法相日前大菩薩堂・絵馬堂・鎮守堂・三光堂・位牌堂・鐘楼堂および能勢妙見遥拝所を構えていた。「妙見信仰」というのは北極星、北斗七星に影響を受けた星辰信仰で、妙見菩薩はその中心に位置する北極星の象徴仏。北極星は北の空にあって位置が変わらない。「スターナビゲーター」であり、海の民や山の民にとって道しるべとなる有難い星だった。その北極星への信仰(妙見信仰)が、都市に入ったさいに、この世で道を誤った迷い人たちを導く星であり神仏であるという信仰へ変容した。道を誤った人たちというのが、すなわち罪人や流れ者たちで、それがゆえに千日前に妙見さんが安置されたと推測される。そう考えると「大阪七墓巡り」の「七つの墓」というのは、北極星を取り巻く北斗七星といえるのではないだろうか?なぜ無縁仏を供養する祭礼の「大阪七墓巡り」で「七」という数字が選ばれたのか?・・・この「七」という数字にも、当時の人々の宗教心が込められていると考えられる。実際のところは不明であるが、一考の余地はあるだろう。