湯島聖堂。湯島聖堂は文京区。神田明神は千代田区。
湯島聖堂。湯島聖堂は文京区。神田明神は千代田区。
千代田区の地図を見ていると秋葉原も千代田区で、なんとなく神田川以北で収まりが悪い。神田明神は元は平将門公の首塚あたりにあったから千代田区でも、まあ、納得できるが。
東京の区割りは複雑で、ややこしくて、どうも納得がいかないことが多いw
湯島聖堂。湯島聖堂は文京区。神田明神は千代田区。
千代田区の地図を見ていると秋葉原も千代田区で、なんとなく神田川以北で収まりが悪い。神田明神は元は平将門公の首塚あたりにあったから千代田区でも、まあ、納得できるが。
東京の区割りは複雑で、ややこしくて、どうも納得がいかないことが多いw
神田大明神。銭形平次の碑。手が込んでいて寛永通宝の上に建てられている。もちろん銭形平次はフィクションであるが、明神下に住んでいるという設定らしい。
銭形平次は岡っ引き。岡っ引きというのは江戸の言葉で上方では「手先」という。警察官僚の下っ端のような存在で、中にはヤクザもんみたいなのも多かったとか。要するに町衆からは嫌われていたりするw
15歳からフリーターで働きだしたが、いろんなバイトをするうちに、あちらこちらのバイト先に先輩ができた。大学、大学院に通っている先輩たちの話は面白く、しょっちゅう先輩についていって大学に通った。当時は学生運動の成れの果てみたいなコミュニティなども沢山あって、そういうところをフラフラしていた時期がある。
なんせ当時の僕は家がなかった(霊◯会活動を拒否、拒絶してから家、親族との関係性はズタボロであった)。大学には多種多様なクラブや研究室があり、徹夜麻雀のメンバーとして勝手に転がり込み、寝泊まりしていた。冷蔵庫やら冷凍庫やらがあり、テキトーに食べ物があり、先輩らの麻雀の相手をしてるだけで食べて生きていけたw
僕が小演劇、大学演劇と触れたのもそこだったし、学生のフリして講義に出席して大衆心理学、メディア論、文学史、歴史学、社会学などのカリキュラムを受けたりしていた。講師に質問の投書をしたこともある。講義の終わりに投書箱を設置して質問に答える講師がいたのだw
そこで学んだことは、いまの僕の仕事にめちゃくちゃ役立っているが、これは当然、モグリというやつで、25年前、四半世紀前のことだが、いまでは到底そんなことはできない。また、そこで僕が得た恩恵は、社会還元することでしか僕の罪は許されないだろう。
そして、だから僕はコモンズ・デザインなんてやっている。なぜ陸奥さんのプロジェクトはフリーなんですか?とよくいわれるんですが、僕がフリーライダーで図書館やら大学やらで無料で金も払わずに学んだのだから、僕が生み出すプロジェクトやコンテンツはフリーで贈与するのは当然のことです。なんらえらくもなんともない。
結局、僕みたいな得体の知れない若者がいろんな大学内をフラフラできたのは、それぞれの大学に自治があったから。学生運動の成れの果てで、学生たちに自治が与えられ、その自由裁量の名の下に、いろんな社会実験が行われていた。※この大学自治が侵害され、縮小していくのが1995年のオウム地下鉄サリン事件という岸井さんの実感はよくわかるし、僕もその時代精神の変化の中にいた。へんなカルトにハマる先輩もめちゃくちゃいた。
まあ、やっている当人は社会実験なんて意識や意志もなくて、ただ欲望のままに、衝動やら直観やら情念に突き動かされ、その大部分はムダでムイミでムキドウでムチャクチャであったが、そういう試行錯誤をしないと、世の中に新しいリノベーションが起こらないという気がする。「新しき人」が生まれてこないという気がする。
自由区やら解放区やらコモンズやら。そういう場や時間や機会を作りたいというのがPARAの一つの狙いらしい。それを東京、神保町でやるのが個人的には面白い。なんせ神保町は日本近代の揺籃の地であるから。このまちは新しき人を作ってきた。
PARAは、ある種の原点回帰のようにも見える。地霊でもあるか。
※というわけでPARA、来期のカリキュラムが発表されたようです。新しき人、来れ!
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■PARA:陸奥賢・岸井大輔と5日でどこまでリサーチできるかな
https://paratheater.com/4881b04a31154cc7839591d20e814eb4
■PARA:共有をつくるには?
https://paratheater.com/65cecbf53e2a49b09c43b4321d5f4179
■PARA
https://paratheater.com/
神保町。ランチョン。めちゃくちゃ美味。東京やなあ。こういう名店が残っているのが羨ましい。もはや大阪でも老舗の欧風レストランはなくなっていく。
カトリック神田教会。聖フランシスコ・ザビエル聖堂。明治7年(1874)創設とか。神田の旗本の屋敷地を拝領して作られたとか。
武士階級は江戸幕府の崩壊でアイデンティティ・クライシスとなり、そのさいにキリスト教に帰依する者が多かったとか。主君から救主へ。わからなくもないですな。何か崇高なものに自分の人生を捧げたい。
神田一橋。学士会館。東京大学発祥の地。東京大学はどうも本郷のイメージが強かったんですが、じつは神田から。
この辺りは江戸城の北側。武家屋敷、旗本だらけで。武家は、江戸時代は官吏、官僚ですから。じつは武官でもあるが文官でもあり、儒学などを熱心に学んでいた。元々、そういう文教の場所であったように思います。
神田、神保町の文化レベル、教養レベルの高さは、そういう土地柄に由来するという気がしてならない。近代以前からの伝統。土地の記憶。
なぜ神田、神保町が古書のまちになったのか?が不明で。大学が多かったからという話ではあるが、では、なぜ大学が多かったのか?という謎が生まれ、しかしリサーチしていくと幕末、1855年に九段下に西洋の書物を研究する「蕃書調所」が作られたというのが鍵ではないか?と思い至る。
この蕃書調所は明治初期に九段下から神田一橋に移転し、蕃書調所→洋書調所→開成所→東京大学と繋がっていく。要するに我が国の大学の発祥が神田、神保町界隈ということになるらしい。
ではなぜ蕃書調所が九段下に?というのは当時の図書頭が旗本の竹本正雅(1825〜1868)で、その屋敷地であったので、そこに作られたらしい。この竹本正雅はのちに外国奉行を務めて生麦事件の幕府側の交渉人にもなったとか。
要するに蕃書調所が九段下にできたのは偶然。たまたまではありますが、それが現在の神田、神保町の古書のまちに繋がっているのかも知れない。数奇なる歴史!
九段下にて。寿人遊星。ハレー彗星の記念に彫刻を作ったらしい。頭が長い。福禄寿なのか?ハレー彗星の尾を意識していると思われる。
パブリックアートでんな。千代田区。そういや、ハレー彗星ブームってありましたなあ。
堺、京、奈良と上方の古い都市は基本、碁盤目状で。大阪も中心部分の船場、島之内などはやはり碁盤目。その周りは複雑な構造をしているが。
東京はどこもかしこも基本的に渦巻き状で、複雑な構造で、地図をみるとすぐ東京やなとわかる。見慣れない感じに戸惑いもするが、そこが面白い。しかし、もうちょい真っ直ぐならんか?とも思うw
神保町。美学校。自由と実験のアカデミア。こういってはなんですが、じつに東京っぽい。
美学校の隣の愛全公園には、かつて東亜高等予備学校があり、若き頃の周恩来はここで日本語などを学んだ。近くには西周の屋敷などもあったそうで、そこは若き森鴎外が通っていた。専修大学も目の前。近世は武家屋敷やったそうですが、近代以降は文教のまちなんですな。
その伝統がRARAにも息づいているのかも知れない。