「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の葭原墓地編で使用したレジュメ
「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の葭原墓地編で使用したレジュメ。七墓巡りの資料として公開しておきます。
■8/13(火)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑤葭原編】「北夙川不可止伯爵のレクイエム歌會」と葭原まち歩き
http://www.facebook.com/events/238355509622577/
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【沖向地蔵は知っている。「おしてるや」の夕陽と海を】
~大阪七墓巡り復活プロジェクト 葭原墓地のゲニウス・ロキ(地霊)を語る~
●葭原墓地は上町台地の北端に位置する。
古代、上町台地は海に囲まれていた。やがて河川の土砂が堆積し、それが砂州となり、島地となり、湿地帯となり、葭原(葦原・吉原・蘆原・芦原)となった。それは浪花の男と女の別れと再会の能楽『芦刈』の原風景にもなった。また周辺には中崎、豊崎、黒崎など、かつて葭原墓地周辺が「崎」であったことを伝える地名も多い。
●沖向地蔵
この沖とは「西方浄土の海」のこと。沖向地蔵は難波の枕詞「おしてるや」(押し照るや=押し照らすかのようにキラキラと光り輝く)の夕陽と海を眺めていた。ちなみに地蔵菩薩は基本、東(太陽が昇るところ)か南(太陽が一番高い所)を向く。西向きや北向きは非常に珍しい。これは太陽ではなく夜の世界(死者)の方角ともいえる。
●日想観の影響
『観無量寿経』 西方浄土に往生を遂げるための初観(第一の観)
釈迦、韋提希に告げたまわく「汝、および衆生は、まさに心を専らにし、念いを一処に繋げて西方を想え。云何が想を作さん。凡そ想を作すとは、一切の衆生、自ら生盲に非ずして、目をもつ徒は、皆、日没を見て、まさに想念を起すべし。正しく西に向いて坐し、諦らかに日を観て、心をして堅く住め、専ら想を移さざらしめ、日の没せんと欲するときの状は鼓を天に懸けたるが如しと見よ。既に日を見おわりなば、目を閉づるも目を開くも皆、明了ならしめよ。これを日想と為し、名づけて初観と曰う。この観を作すをば名づけて正観と為す。他の観の若きを名づけて邪観と為す」
●西方浄土への補陀落渡海
「当堺にきたる後、日本人が偽の天国にいく方法を見たり。すなわち艱難多き現世壓き、安静なる他の世を望める者、天国行きを実行せんと決心せり…日本人は国多数あるがごとく天国も多数あり…天国中、海水の下にあるものあり。彼らは衣をあらため、最もよき物を着し、各々背に大石を縛り付け、袖に石を満たし、すみやかに天国に達せんとす。余が見たる人は7人の同行を伴いたり。船に乗り海に投ずる時おおいに歓喜せることは、余が非常に驚きたるところなり」
永禄2年(1562) 宣教師ガスパル・ビレラの書簡より
「一人ずつ深き海、むしろ地獄に投身せり、追随せし人々は、ただちに空虚なる船に火を付けたり」
永禄5年(1565) 宣教師ルイス・フロイス書簡より
●法然上人 ご詠歌
「阿弥陀仏と いうよりほかは 津の国の なにはのことも あしかりぬべし」
一心不乱に南無阿弥陀仏と唱えること以外のことをしてはいけない。南無阿弥陀仏と唱えることで、津の国・難波のことは、すべてよくなる。
●後白河法皇 ご詠歌
「難波潟 入りにし日をも 眺むれば よしあしともに 南無阿弥陀仏」
難波の地にやってきて、海に沈み行く夕陽を眺めれば、良い人間も悪い人間も極楽往生にいける。
●長柄墓地(大阪市設北墓地)
明治維新後、大阪市中の各墓地は整理され、北(梅田墓地、葭原墓地など)は長柄に、南(小橋墓地、千日墓地、飛田墓地など)は阿倍野にまとめられ、明治40年(1907)より大阪市が経営することになった。約6.5平方キロメートルの敷地に5000以上の墓碑がある。司馬遼太郎の『俄-浪華遊侠伝-』の主人公としても知られる任侠者の小林佐兵衛、大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)設立に尽力して初代副会頭となった中野梧―、土佐の武市半平太の従兄弟で第3代大阪市長の山下重威などが眠っている。