「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の蒲生墓地編で使用したレジュメ
「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の蒲生墓地編で使用したレジュメ。七墓巡りの資料として公開しておきます。
■8/14(水)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑥蒲生編】「書家・田面遙華による書のワークショップ」と蒲生まち歩き
http://www.facebook.com/events/206690852822069/
——————————————
【大坂城炎上!なにわのことは夢のまた夢…】
~大阪七墓巡り復活プロジェクト 鳶田墓地のゲニウス・ロキ(地霊)を語る~
●大坂夏の陣の戦死者たち…その数、10万人
関東方が討ち取った大坂方の首は『長沢聞書』によれば18350人。『大坂物語』によれば14629人。これは、しかし、戦闘員の首の数で、非戦闘員については不明。
「大坂にこもりたる衆は、命ながらへたる衆は、ことごとく具足をぬぎ捨て、裸にて女子もにげちる」(大久保彦左衛門『三河物語』より)
「多くの人は約10万人が死んだと言い、町の中で殺された人々のほか、合戦が行われた周辺も死体で埋まっていた。大坂の川(大川)は水が豊富で非常に深いだけに、敵の武器や火事を免れようとした多くの人々のために、かえって墓場と化した。川底は死体で埋もれ、向岸へ渡ろうとすれば、その上を歩かねばならないほどであった。やっと命を助かって大坂から逃げた人々が途中で殺されることもあった。つまり土民や他の人々は逃亡者の持ち物を奪い取り、彼らを虐待するため、襲い掛かって彼らを殺してしまうのは、このような時の日本のならわしである」
(『切支丹研究第17集』の「耶蘇会史料」より)
●豊臣政権の滅亡
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」
●弁天島→大阪砲兵工廠時代
弁天島・弁天社→淀君神社→墓は現在は太融寺へ。「淀の君」の「君」というのは遊女的意味があって蔑称。「淀の方」が正式。※大坂城の鬼門(東北)に淀の方の墓を置かれた事実。怨霊鎮めのためと考えられる。
●京橋空襲 1945年8月14日(終戦前日の悲劇)【大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑】
太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された。
●大阪砲兵工廠跡は戦後最大のアジール(悪所)と化す アパッチ族
伊沢組、松山組、徳山組、大川組、松岡組がいた。新米は1日3食付で200円の教授料を支払う。昭和27年(1952)当時、30万円の人夫代で2000万円を古鉄を集めた。当時の30万円は現在の紙幣価値で約200万円ほど。2000万円は約1億3000万円。※時代は朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日休戦)。鉄こそが力の時代。祖国を分断する戦争に使用される鉄を拾い集めていたのが大阪の在日コリアンたちだった。
※ちなみに一番最初は婆さん2人からスタート。そのうちのひとりの名前は「おきく婆さん」
●アジールから生まれたアートという系譜
太子墓地から「弱法師」が、千日墓地から「大近松」が生まれたように、蒲生墓地(アパッチ族を題材にして)から戦後大阪文学(開高健、小松左京)が誕生している。
開高健・・・アパッチ族を題材に『日本三文オペラ』を書く。ベトナム戦争からアマゾンまで。行動派作家。ルポ作家の奔り。
小松左京・・・アパッチ族を題材に『日本アパッチ族』を書く。日本SFの父。パニック小説。輪廻転生SFの大傑作『果てしなき流れの果てに』